きもの風土記

最上紅花の歴史
ナイル川流域を原生地とした紅花は、絹が西へ向かったのとは逆行し、東へ向かい、中国から渡来したといわれている。当初、わが国の紅花の栽培地は全国にわたっていた。しかし、奥羽山脈と出羽丘陵に抱かれた山形盆地を南から北へと流れる最上川沿岸は、肥沃な砂質土壌とその盆知性の気象が紅花の栽培に適していたことも手伝って、県内でも村山盆地周辺集まりだした。江戸時代には全国生産の大半がこの地に集まり、紅花荷主問屋が誕生し、相場を定める目早(めはや)やサンペ(仲買人)などが活躍はじめ、一大集散地を形成していった。出羽在来の中性種のなかから系統分離された可憐な最上紅花は、紅餅(はなもち)となって京都へ送られ、京おんなの唇を彩り、また、京友禅に究極の紅としてその美をとどめ、全国にその名声を高めていった。しかし、明治になり、唐紅や化学染料の台頭で、有力な換金作物として推移してきた紅花もその生産量において激減していき、わずかに宮中や皇太神宮の式典での衣裳にその名残を残すだけとなった。

現在
の最上紅花
現金収入が故に、紅花の栽培に力を注いだ江戸時代と現在を数量的には比較のしようもない。しかしロマンある真紅に魅せられ、紅花を愛する人たちの情熱は、人々の心に再び紅花の息吹を吹き込みはじめた。米沢の紬にも、京友禅にも。一方、河北町の紅花資料館への参観者をみても、年間8万人を数えるという。

紅花館 りょうおう
紅花資料館(かつての紅花富豪・堀米家) 紅花染の装束をつけた陵王

昔変わらぬ紅餅(はなもち)づくり
紅花栽培をする溝辺地区の農家、井上忠作さんを訪ねた。
最上紅花は清明の日(4月5日)に種をまき、半夏(7月2日)に摘みとるのだという。経験に学び経験に生きてきた先人の教えであろう。7月上旬、咲きはじめた花を摘む目安は「三片紅」といい、3枚の花弁が赤くなった時が最もいいのだそうだ。「この時期になると毎年新鮮な感動を覚える」と忠作さんは笑う。うっすらと空が白みかけると、早々と花摘みがはじまる。乾いてからでは良質の花が得られないのと、葉のトゲが硬くなり、手に痛く摘みにくくなるからだ。腰籠に摘みとってきた花弁を袋に詰め、堰(せき)につけ、踏み揉みして雑汁を出す、この一連の作業を「花振り」といい、「品質の良い紅を取り出すのに重要な仕事だ」と説明してくれる。よく搾った花弁を花せいろに敷き並べ、熱醗酵をさけるため冷水をそそぎ一夜置く。これを「花寝せ」といい、この間紅花の変色ぐあいと、花弁が多少餅状になる度合いをしっかり監視しなければならない。これを2〜3日天日に干すと紅餅のできあがりだ。こうしてできあがった紅餅は、口紅や染めの原料として、出荷される。


花せいろ 乱花 はなもち
花せいろ 乱花=生花を乾燥 紅餅

米沢では
同じ山形県内の米沢では昭和36年から紅花染織の研究に着手した人がいる。新田秀次さんだ。
もともと米沢といえば仙台平が有名だが、新田さんも例にもれず、はかまを専門として製作してきた。が、「郷土産業のひとつとして紅花再興に全力をあげてきました。おかげさまで一応の成果となりました」と話す。糸染めに、白紬のたぐり染めにと、米沢にも朱が輝く。

糸染め 襦袢を染める 振り袖
糸染 襦袢染 紅花で染めた振り袖
 
ひとつ咲き
最上紅花の不思議
この地方に「半夏(はんげ)一つ咲き」という言葉がある。
半夏というのは夏至より11日目の日を指し、この頃になると、その作付け面積の大小に関係なく、必ず1集団に1つの紅花が咲くという。先兵として温度や湿度など、その季節感を偵察にくるのか、不思議な現だ。
一方、天竜付近から北部に至るにしたがって若干その季節が遅れ、このあたりでは、土用一つ咲きという。
いずれにせよ、その土地の気象条件にそった先人の知恵をが垣間見ることができる。