江戸時代、藩主水野公の奨励によって綿の栽培と縞木綿の製織が盛んに行なわれてきた。それを素として「備後機業地(福山・深安・芦品・府中)」、言いかえれば、藍染めの技術を活かした日本一の綿デニム産地として発展してきた。
十数年前、私が訪れたのは神辺の「坂本デニム」。文字通りデニム生地生産の機場であった。機場といっても既に、デニム産地で名をはせる三備地区のオピニオンリーダーであり、「染色−縫製−販売」まで一貫したグルーピングがなされていた。そんな中で、坂本オリジナルとしてジーパンや作務衣などの最終製品は今も販売されている。販売ルートは異にしていたが、デニムのきものもその中のひとつであった。
きもの風土記 きもの風土記 きもの風土記

   
   
きもの風土記 備後絣は、江戸時代末期、福山市芦田町に住んでいた富田久三郎が、麦藁屋根の押し鉾竹がすすで汚れて白と黒とに染まっているのにヒントを得、木綿糸を紡ぎ、手で括り、正藍で染めて、絣織物を作ったのが始まりだと云われている。今からおよそ130年前のことであるが、当時は文久絣と名付けて販売されていた。
100年以上の歴史を持つ坂本デニムの生業も、さかのぼれば備後絣の生産。先代の社長は現在の一環システムをバックに、同社に貯蔵されている柄伴天(写真)
にもヒントを得、男物のデニムのきもの制作を考えついたという。
綿デニムでは硬い。そこで斜文織(綾織)でデニム地を製織するのに、緯糸に嵩高なネットロウシルクを用いる、いわゆるシルクデニムを使用。帯は綿100%。染めは正藍100%で付加価値をと、工場内に醗酵室まで作る念の入れよう。そこには醗酵寸前の藍液を蓄えた20数個の藍がめが埋まっていたのを思い出す。サイズはL・M・Sといった具合だ。
宣伝のためにと1着進呈され、今も福の上に着るなど重宝している。
余談だが、この後仕事で博多へ回った。博多織の工場から下駄を借り、いただいたデニムのきもので中州へと繰り出した。デニムのきものということもあって予想以上にもてた?ことはいうまでもない。
先述したが、「坂本デニム」では現在きものは作っていないという。しかし、ネット上でさえ販売されている。何処かが引き継いでいるはず、探してみたいと思う。

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