きもの風土記きもの風土記
きもの風土記

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男の羽織の紐
きもの風土記
落下傘地使用の重打台
きもの風土記
落下傘地で組まれた帯締
江戸組紐のこと
人間社会がはじまって以来、紐と人との関わりは古いが、工藝組紐としてはその技術発生や伝播について今のところ諸説である。しかし、平安時代には京の都で宮廷や社寺の装飾組紐を創る職人が存在していたという。
ところで江戸組紐だが、職人たちの技の起源は徳川300年の歴史に由来する。当時、江戸の人口の約半数(50万人)を占めた武家たちの需要に応じるため、数多くの職人たちが八百八町に集まった。当然のことながら江戸組紐は装身具だけでなく甲冑や馬具など、いわゆる武具にその用途を求められた。中でも大鎧などは100ヒロ、すなわち150b余の紐が、使われた。結果、庶民の需要もあったであろうが、武家を中心とした組紐の生産は莫大なものであったろうと想像できる。
このようにして江戸文化は、職人たちの技を競いあわせその切磋琢磨が軽くて丈夫な、硬くてもしなやか」な羽織の紐や帯締めの原点として、現在に活かされている。
明治9年(1876)、廃刀令の実施に伴い武家社会は崩壊していく。そして武家を中心に育ってきた組紐も羽織の紐や帯締めに活路を見い出していく。中には紐職人へと移行した武士もいたというのだが、いづれにせよ職人たちは、時代即応のため流行に敏感になり、新天地へとさらに高度な技を求めて競いあった。
明治の中頃から昭和15年頃の約50年間の諸条件が職人たちの切磋琢磨を促し、和装業界での江戸組紐の地位をゆるぎないものにしていった。
全盛時には268名の親方衆を要し、全国生産(手組製品)の80%を生産するようになった東京の組紐業界ではあるが第2次大戦により壊滅的な打撃を受ける。鉄は強要供出、器台は生活の薪となって焼かれてしまう。
家も無く、四散する職人たちは、転業を余儀なくされていった。しかし、その後の職人たちは凄かった。想像を絶するひたむきな努力により、昭和20年代後半には回復の兆しを見せはじめる。
戦災に殆ど合わなかった関西地区に、生産高においては後塵をはいしているが、武家と共に育ってきた江戸組紐は、その特徴が故に、今も厳然と業界をリードしている。