きもの風土記
藤の蔓
藤布。人はこれを原始の布と呼ぶ。なぜならばその誕生を縄文の時代に持つからだ。採集経済と云われた縄文時代には、人々は楮(こうぞ)や科、芭蕉や楡など、山野に自生する草木に素材を求め、自らの衣服としてきた。なかでも藤はご存知のように本州全土、四国、九州(対馬を含む)の山野に広く分布する蔓性植物で、1500年頃までは最も手軽な繊維素材として各地で長方がられてきた。しかし、1510年、三河の国(愛知県)に綿がもたらされ、この地で初めて栽培されると、その肌ざわりの良さや紡ぎやすさから、たちまちにして西日本を中心に全土に普及していった。当然のことながら藤や楮、いわゆる原始布の域を急激に侵食していった。結果、北陸から山陰地方の山間部すなわち、木綿の栽培が十分にかなえられない所にのみその存在を残すこととなっていった。
木綿に席巻され追いやられたとはいえ、少なからず生産されていた藤布ではあったが、時を経て新繊維の普及や生活文化の向上に押され、次第にその姿を消していく。そして、その運命のながらえを唯一京都府宮津市の上世屋(かみせや)地区に住む14人の老婦人にあずけた。昭和47年のことである。


   
きもの風土記
居座機に向かう老人
急激な断層からなる丹後半島は、標高も400bを越し、冬ともなれば、荒々しい日本海に突き出た台形はその形相を一変させ、自然環境の厳しさは新潟県の豪雪地帯を彷彿とさせる。なかでも上世屋は、一段と奥深い山間部に位置しており、漁業もかなわずかといって農業もままならなかった。そんな自然の厳しさが上世屋の人々をして自らの衣服や魚網にと、生活の糧を藤布に頼らせてきた。
そんな上世屋でかろうじて技術を駆使していた老婦人たちも年齢には逆らえず藤布の命も風前の灯火となっていた。


   
きもの風土記
藤伐りをする加畑さん
子供の頃よく世屋に遊びに行き、おばさんたちが作っていた藤布を見て少なからず関心を抱いていたと話す巧房を主催する加畑兼四郎さん。
やがて成人した加畑さんは、土地柄からちりめん作りに従事することになるのだが、地元の織物くらいは全て知っておきたいと、数少ない老婦人の中から師匠を選び師事したのが藤布との2度目の出会いだったという。
自分の勉強のためにと軽い気持ちで接した藤布ではあったが、「文化財としての価値を持つこの布を、なんとか次代に残したい」、と思い始めるのに時間はかからなかった。人々に呼びかけ「丹後藤布振興会」を立ち上げ、平成13年には「京都府伝統工芸品」の指定も取得し、次代へと発信している。


   
藤の中皮から繊維を取り出し、平織りしたものだといえば簡単だが、その工程はそんななまやさしいものではない。
まず『藤伐り』といって藤の蔓を採集するのだが、たっぷりと水を含んで皮が剥ぎやすくなる4月頃に刈り取る。が、最近の山は放置されているためジャングル状になっているだけでなく、布にとって最良の藤が少ないという。せめてもと寸止めなどの手入れをしておくのだがとてもそれでは間に合わない。そんな中から4〜5年もので、できるだけまっすぐな蔓を選んでできるだけ長く(通常ひとひろ)刈り取る。
きもの風土記 きもの風土記
藤蔓を裂いたところ 剥がされた皮