きもの風土記
きもの風土記
縄文土器に2条の燃縄や3条以上の燃紐の回転押奈文様が施されているが、これが日本の紐の存在を示すものか定かではない。
伊賀ではどうであろうか。実際の歴史は古いものと推測されるが、ここでもその資料は殆ど残っていない。しかし、奈良時代には仏教の伝来とともに大陸から伝えられとされているが、事実経典や袈裟、仏具の紐に用いられており、その頃の名残として正倉院には「雑色篠帯(さっしきくみおび)」が所蔵されている。
都が平安京に移ると、有職貴族の装束に欠かせない束帯に用いられた唐組の平緒(ひらお)の帯、さらに鎌倉時代には武士の武具に、室町時代には茶道具箱の装飾紐に、戦国時代には鎧の緘糸(おどしいと)や刀の下げ緒、江戸時代には刀剣の飾紐ーーと、各時代ごとの組紐需要に対応してきた。観世流の能衣装や面にも用いられたこの伊賀組紐も、この頃には“打師”も生まれ、互いに技術を競いあい、幕府の保護も寄与して組の種類も多くなっていた。友生屋忠兵衛旧蔵の「柄糸見本帳」には30種以上の組紐見本が残っている。
隆盛を誇ったこの地の組紐も、明治時代の廃刀令、武家社会の崩壊によりかなりの痛手を受けるが、技術技法は藤堂藩鎧師・筒井小市郎、次男影春らにより伝承され、神宮皇后などの人形に組紐が残されている。
1902年(明治35年)、広澤徳三郎が東京から和装組紐の技術を習得、帯締や羽織ひもの組技術を持ち帰り、郷里の上野市上林で江戸組紐の糸組工場を設立、以後、伊賀組紐の産地として大きく発展、全国産額の大半を占めるようになった。

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男性用 丸組、角組、平組 女性用

 
紐の組み方には、平組、丸組、角組の3通りがあるが、3通りの中にも紐の用途によって組台を使い分け、多様な種類が製作されている。
伊賀の組紐は現在、「手ぐみ」と「機械ぐみ」とで作られているが、特に、引き継がれてきた伝統を活かしながら現代の用途に合わせて組まれる「手ぐみひも」は、色あざやかな見栄えと伸縮性に富んだ仕上がりが秀逸だ。例えば帯締。伸ばして結んだ後、キュッと締まってこそしっかり着付けができるわけだが、絶妙の伸縮具合に仕上げている。
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この伸縮性を確保するのが「平組=高麗組、地内記組、笹波組、大和組、唐組、綾竹組」「丸組=四ッ組、八ツ組、加茂川組、つくし組」「角組=角杉組、御岳組、角源氏組」などの代表的な3技法だが、細かく分ければ50種類にも及ぶ。組台も高台、角台、綾竹台、重打台、内記台(写真)と各種のものが開発されている。それだけに味わいも多種に及ぶ。
伊賀地方で組紐が発達した背景には、芭蕉や観阿弥、世阿弥を輩出した伊賀人の鋭い感性と、山あいの静かな環境に加えて、伊賀忍者の「下げ緒七術」と呼ばれる紐術があったこと、藩内の武具の紐を自給自足していたことも付け加えてよさそうだ。