きもの風土記きもの風土記
   

金沢には前田藩14代、約300年間の繁栄の歴史に、熱心な文化保護育成への取り組みがあり、これが美術工芸品を奨励する土壌を育んできた。しかし、それにはかなりの政治的配慮があったようだ。
時に3代藩主前田利常の時代幕府の鋭い監視の目をそらすため藩の武備を捨て、文化面に力を注いだ。幕府の目をくらますための政策であった。
例えば慶長7年(1607)、金沢城の天守閣が落雷のため焼失それはそのまま再建されることはなかった。無論、幕府に対する経済力のカムフラージュであった。こうした藩の政策がしらずしらずの間に民衆の間に定着し、大樋焼や加賀友禅などの伝統工芸を今日に残すこととなった。


金沢には二つの美しい川が流れている。西に流れる男性的な犀川東に女川と呼ばれる情緒豊かな浅野川。この二つの川の良質で豊かな水を見ていると、加賀友禅は生まれるべくして生まれたような気がする。江戸時代にはこの二つの川にそって多くの紺屋が並んでいたという。
友禅というのはよく水を使う。生地に附着している糊や余分な染料を洗い流し、色止めするためだ。春まだ浅い3月犀川、浅野川の冷たい流れの中で行われる友禅流しは、今なお春を呼ぶ風物詩だ。石川県の伝統工芸にあって一際華やぐ加賀友禅は、今から500年あまり前(寛政年間)、梅染と呼ばれる無地染に端を発し、17世紀から18世紀初頭になると、兼房染(黒染)や色絵、色絵紋(加賀紋)が始まる。いわゆるお国染と呼ばれるものだ。
この頃から色絵の防染に、一陳糊(小麦粉をベースにしたもの)が使われるようになりこれが加賀友禅の土台となった。
正徳2年(1712)にはすでに200軒ちかくあった紺屋の頭取太郎田屋に宮崎友禅斎が訪れた。友禅斎60才の時である。既に傑出した画工であった友禅斎は、これを機に加賀友禅の興隆に一役買っていく。伝統への第一歩は今から300年余り前のことである。

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加賀友禅
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長町の武家屋敷
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兼六園
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大樋焼

一般的に加賀友禅といえば狩野派の流れをくみ、写実的な草花模様を中心にした絵柄が多い。また、色合いにおいても多彩で3色ぼかしこみ(1枚の葉や花ビラを3段にわけ、それぞれ違う色でぼかす)という高度な技法や、虫喰い(木の葉のところどころに虫が喰った跡を描く)等のアクセンチャルな表現で、自然美をより巧に描きだすことによりリァリティを強調するといったふうに、実に手がこんでいる。加賀友禅の特徴を一言でいうなら、加賀5彩を基調とした古典調ということになるのだが、作家個人が製作するため、考え方によって様々であり、そこには時代というものも加味される。が、いずれにせよその底流に流れているのは、この地に息づく伝統を基調とした加賀調だ。
この道30年を超えるベテラン作家は「下絵と糊置きは一体のものであり、心が通いあわなければうまくいかない。加賀友禅は糸目糊に糯(モチ)糊を使うが、私はその糊自体の調合にもこだわります。糊質によりぼかしが左右されるからです」また、その作風については「配色、特に中間色うまく使うよう気を配っています」続けて「加賀友禅は外から内へぼかすのが特徴ですが、作品の美しさがほぼ決定するので、地色を頭に置きながら、白生地に描いていきます」と、その難しさを語る。

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加賀友禅と称されるものに、もう一つ板場友禅がある。これは、模様を彫った型紙を板張りした白生地の上に型付けして捺染していくのだが、18世紀末頃金沢に生まれたといわれている。そしてこの技法は白生地にのる小紋柄の切れ味をだすため、型紙への執着はすごい。こうしてでき上がった作品は、加賀小紋と呼ばれている。

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