「黄八丈はいつ頃から織り始められたのか」については定かではない。が、八丈島に自生の桑があり養蚕は昔から盛んであったことから、絹織物の歴史も同じく古いということは推察できる。史実としては、八丈島が中央の支配を受けるようになった室町時代、米に代わる貢絹の記録がある。
徳川の中期以降からは現代にも通用する堅縞や格子柄が織られるようになり、同時に植物染料による黄着色が完成され、今日の黄八丈となる基礎を確立していった。将軍家の御用品となり、大名や旗本、大奥の御殿女中などに愛用され、町人文化が花咲いた文化文政時代以降には、庶民層にも着尺や丹前として親しまれた。が、この時代も貢租としての性格が強く、島の婦女子による副業として生産されていた。
1960年代には本土の問屋が力を入れ生産量も増大していったが、同時に観光地として脚光をあびだした八丈島に訪れる観光客に、問屋への卸値で販売したため、問屋が手を引き生産量激減というエピソードもあった。
先述したように黄色の染材となる島名八丈刈安は“コブナグサ”、樺色のまだみは“タブノキ”、黒色の椎の木はスダジイ”のことだ。

きもの風土記 きもの風土記 きもの風土記
こぶなぐさ  たぶの木 スダジイの木
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乾燥こぶなぐさ たぶの木の生皮 スダジイの乾燥樹皮
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こぶなぐさの煎汁(フシ)で染めた糸 たぶの木の生皮で染めた糸 乾燥させたスダジイの樹皮で染めた糸


  
工芸品の多くは、生産地の名がそのまま使用される例が多い。が、黄八丈はその逆だ。本居宣長が「八丈という島の名はかの八丈絹より出ずるむかし」と書き残しているが、これは黄八丈のことではなく、当事は絹織物全般の呼称であった。養蚕の盛んであった八丈島は、絹織物の呼称をとって島名にされたもので、8丈とは反物でいう一疋(2反)のことだ。


  
鍋で繭を煮ながら座繰りで糸を引く。撚りをかけ草木染を施し手機で織る。昔ながらの製造工程だ(今は糸を買う人もいるが)
織り方には平織と綾織がある。染材の刈安(学名コブナグサ)は7月から11月にかけて刈り取り乾燥させる。それを鉄釜で5〜6時間煮て染液(島では「ふし」と呼ぶ)を作る。ふしに10時間程度浸し、糸を絞って天日乾燥させる。草木染料は繊維に浸透しにくいのでこれを何度も繰り返す。さらに、ツバキやサカキの生の葉を燃やした灰で作った灰汁(アク)に10時間ほど浸し再度ふしを振りかけ乾燥させる。この作業も3回ほど繰り返されるが、最後は水洗いしてフィニッシュとなる。字で表現すれば以上のようなことだが、実際には大変な工程だ。
以上は黄八丈の王道黄染めだが、樺も黒もほぼ同じ工程をたどる。ただ黒染の場合は、灰汁の変わりに泥付けされるが、これは大島紬と同様である。

きもの風土記

生糸、玉糸、真綿のつむぎ糸。染料はコブナグサ、タブノキの生皮、スダジイの樹皮。媒染材はツバキ、サカキの灰汁、泥土で作り出される黄八丈。その風合を醸し出すには2、3年は着こなさなければならない。染めが糸になじむには、織が柔らかくなるには、ということだ。
東京都八丈島八条町。我々が想像する東京都とは全てを異にする、もう1つの東京都の素敵な人情と思い出を胸にタラップに足をかけた。