きもの風土記
小袿(こうちき)




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庶民の服装
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狩衣(かりぎぬ)


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小袖袿(こそでうちき)

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小袖袿

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小袖服飾




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小袖


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小袖

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絵模様小袖
染色技法の開発

また染色の面でも“しろたえ”から素朴な赤、青の縞物、この2系統色に紅、緋、蘇芳、碧、紺、縹、緑の応用色が区別され、この他黄、紫、茶などの新色も奈良時代に出てきている。特に注目されるのが染色技法の進歩で、正倉院の御物に残る古代裂にもある昴(ろうけち)、キョウ纈、纐纈(こうけち)の俗にいう天平・染色3纈がそれだ。
キョウ纈は模様染めの一種で、模様を彫った2枚の板の間に二つ折りの布を堅く挟み込んで染め上げる板締め方法。昴窒ヘ蝋を使って色染めするもの。また纐纈は絞染めの1種で糸で括って模様を出すもので、それぞれ独特の味わいが生かされている。それらに使われた模様も渡来先の影響を強く受けて、唐の草花模様が多く、後にこれらを唐花模様と呼んでいた。

絹業の生産形態

奈良時代の積極的な織物振興策は、朝廷の織部司と呼ばれた役所が全国を統括指導して進められた。
和銅4年(711)挑文師(技術者)が全国に派遣されて錦、綾織を伝え、また緋・藍染の技術を普及させた。この織部司は承久の乱(1221)までの500年間、絹業の中核となった。
なお、この頃の絹織物生産は荘園領主(貴族・公家)の運営する「座」によって保護されていた。この座にはその生産品種によって小袖座、大舎人織手座(綾織)、白布座、練貫座(絹羽二重)、帯座、糸座、紺座、藍座などに分かれていた。
ここで注目されるのが、先にも述べた現在のきものの原型である小袖や帯の文字が、当事独立した生産機能の座として使われていたことであり、後世に大きな影響を与える下地は十分にあったことがわかる。ただ、これらの座は、安土・桃山時代に京都、堺、博多、加賀、越後、駿河などに産地の基礎を残し、また金襴や緞子、朱子織などが平織、綾織に加えられて技法の幅を広げ、織機についても居座機(いざりばた)の他平機、高機、花機(空引機・紋織機)が導入されていった。

鎌倉・室町時代の服装

時代的に前後するが、栄華の限りを尽くした公家・貴族の支配に幕を閉じ院政に続く武士階級の台頭で、12世紀の鎌倉幕府が生まれ、俗にいう鎌倉時代を迎える。
この頃の服装は平安時代の流れを簡略化する一方で、公家や武士の衣服が庶民に、庶民の衣服が武士階級へと交流を深め、女子の服装は襲(かさね)が分解され、袴がはずされていった。つまり小袖衣装の定着である。藍など草木染の普及による文様の発達が下着として用いられていた白の小袖を表着の小袖に独立させ、筒袖から幅広の袖へと移行していった。
この服装史の中での大きな風俗変化は、室町時代に進められたわけで、1467年の応仁の乱をスタートとする戦国時代が、世の中を貧困に陥れ、身分階級の差別が服装の面ではなくなるなど、その背景をつくりあげていった。
つまり弱肉強食の戦乱の時代に衣生活にまで、手が回らなかったということだ。
しかし、新しい服飾が生まれなかったかわりに、今まで受け継いできた服装に生活の知恵が生み出した応用を加え、着用する感覚を盛んにした。小袖がそうであるように、道中の塵除け、防寒魏としての道服や出陣用にきた陣羽織があり、さらに女子の外出着として壺装束が見かけられた。
当事の上流子女が顔を隠す風習から、うすぎぬを頭から被り、また麻糸を傘の周りに垂らした幅広の笠(市女笠)を用いていた。前者が小袖かつぎ、後者が虫垂れという風俗であり、壺装束は腰で衣服を中結びにして裾をつぼめて歩く姿からこの名がある。
一方で、服装が簡略、省略などで庶民の中にどんどん溶け込んでいったが、戦乱の時代の心の荒みをいやすために茶の湯、能の行事が興ってきたのもこの時代であった。今日、精神文化の原点とされ、最も日本的な支えとなっている。
これらの行事が太平の世でなく、乱世の流れの中で息づいてきたことに、その民族的な意義が感じられてくる。
なお、この能装束は唐織や摺箔、縫箔など、すべて女役の衣装が小袖であった。また、小袖の上にはおった打掛を肩からはずして腰にまとう姿もあったが、これは当時の助成の正装ともいわれている。

江戸時代の小袖

足利幕府崩壊で天下を握った織田信長から豊臣秀吉を経て、徳川家康にいたる安土桃山時代は、わずか30年の期間であったが、群雄割拠の武将を統一した直後であったので、再び平和が取り戻された。しかも戦乱の反動と経済の復興とが相乗的に作用し、世相は活気にあふれていた。商業が発達し、都を中心とする町人文化は勢いを増して、また生活力をつけて人々の服装が華美に走った。それが染織技術の向上を促進して、後世に特筆される最も豪華な安土桃山文化を生み出した。それは江戸時代へと継承され現代のきものに結びついていく。
この時代の服装は、いうまでもなく小袖が中心的な役割を果たしていた。
小袖は大袖の表着の下に着る筒袖を対照的に呼ぶようになったが、外着として独立した“きもの”となった小袖は、優れた染織加工技術の導入で、初期の素朴さから見事に脱皮した豪華なものに変身していく。当事の小袖は身幅が広く、袖幅が狭い。衿下は短くが長く、襟幅が広い。裄丈は短く袖口が小さく、丈は対丈(ついたけ)であった。
模様は多彩であったが、その表現技術は摺箔と繍い、絞りを多く用いた。刺繍に金銀箔を併用した豪華な繍箔は華美を謳歌した桃山時代の代表的なものであろう。
また友禅染の前身といわれる絞染と墨描による絵模様の辻ヶ花もこの時代の染色技法の高さを測る上で十分なものである。
庶民の小袖は働くのに都合のよいように筒袖であったし、対丈の長着に細帯、腰に三幅前垂れのような布を巻いて日常着としていたが、色彩的にも鮮やかになって、ますます小袖姿のその自由な軽快さと明るさが、当事の人々の心に深く根付いていった。