きもの風土記
小袖服飾
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打 掛
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公家女房の正装
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直垂(ひたひれ)
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腰巻姿
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公家小袖
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小袖

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御高祖頭巾姿



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ショール姿



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吾妻コート
完成された文様

江戸時代は300年間の太平が続いたが、一方で鎖国政策を進め、外国文化の流入を締め出し、また封建制度の上で士農工商の身分を確立していった。しかし経済を握った商家が逆に力をつけ、その富裕化が目立った。もちろん服装にもその影響を及ぼした。それを小袖にみると、江戸初期にかけての細かい縫箔の、いわゆる慶長文様に代わって大模様の意匠付けが流行してきた。特に中期にかけての寛文模様と呼ばれるのが代表的なもので、肩裾(上半身と裾だけの構成)、片身替文様(背を中心に左右の違いは異色・模様)、段替文様(肩から背中半分にかけての大柄模様)、上方展開模様(裾から肩へかけて配した文様)など、文様を大胆に展開する技法が用いられた。これらの文様は現代に伝わる友禅、つまり手描友禅、型友禅、絞り、摺絵、型箔、小紋、中型などの技法の基本を使っている。特に元禄文様の展開は女帯の結び方の発達により、小袖模様が腰を境に上下に構成されたり(割文様)、褄下から裾にかけての文様配置(褄文様)を次々と生み出している。また裾模様を表地だけでなく衽や裾野裏に文様を配するといったように、裏文様に凝るむきもでてきた。
江戸時代の風俗をよく表わしている歌麿の浮世絵などには、こうした当事のきもの姿の美しい女性が見事に描き出されている。


帯の発達

帯が注目されはじめたのも江戸時代だが、それ以前は帯というより衣服の前合わせのために用いた紐であった。つまり、足利中期までは細い組紐や小幅生地を八つ割、六つ割にして用いていたにすぎず、それが安土桃山時代以降になって帯としての形式を整えてきた。これが名護屋帯(なごや帯の原型)と呼ばれた細帯だ。以後、小袖の身丈が長くなるにつれ帯幅も広くなり、結び方の工夫もなされ、文様の展開と相まってきもの姿に調和する帯の存在が一段と増していった。元禄時代には九寸幅など一幅物をそのまま用いるようになった。
この頃になると、使用生地も染織技術もかなり高度化し、特に中国から伝来した唐降、金襴が西陣などの産地で作られる他、織組織も繻子、綸子、緞子、襦珍、絞り、刺繍、ビロードなどと豊富となり、もはや小袖などのきものから独立した重要な装飾品となっていった。
結び目も大きく変化し、蝶結び、文庫結び、太古結びと多種多様になり、後ろで結ぶだけでなく、前結び、横結びといったように階層、職業によって色々と応用されていた。特に江戸の風俗の流行は遊里と芝居小屋から始まったといわれ、そのため歌舞伎役者の影響は強く、結び方を真似て水木結び、吉弥結びといったような帯姿が流行した。太古結びも江戸の亀戸天神の太鼓橋再建の際、芸者集が橋にちなんで結んだところからこの名が出たと伝えられている。
このような歴史的経過をたどり現代につながっているが、その完成された見事さは時代の流れを感じさせない新しさを持っている。


綿織物と庶民

帯の発達によって小袖をきものとして完成させた江戸時代ではあったが大名の参勤交代や城下町への人口集中などで経済は拡大し、商家を中心とした町人の服装への関心は贅沢を尽くすことに向けられていく。幕府は奢侈禁止令や倹約命令の発布をなし「町人百姓は麻、木綿の衣服か、絹紬まで・・」と制約をしたがこれが逆効果生み、身分制度への反発となって、町人は裏に派手な文様を配したり、地味に見えるが高度な技術を要した紬絣で禁止令に背を向ける風潮もあった。
度々の禁令により絹織物は特殊階級、木綿や麻は庶民と格付けされてはいたが、木綿は8世紀の初めに種子が日本(三河国)に運ばれたものの栽培に失敗、輸入綿布に頼っていた。したがって当事は一部の支配社層にその需要は限られていた。が、15世紀頃には本格的な栽培が見られるようになり、庶民のきものとして飛躍的に普及することになる。これに伴い織技術の進歩で絣、縞、縮絞りなどが盛んとなり、染模様の華やかさに対抗して地風の素朴さが庶民性を強く訴える結果となる。
絞りは、絹では京染めを主体に鹿の子、比翼、蜘蛛、嵐などがあり、綿では有松絞が16世紀に、17世紀には豊後(別府)や高瀬(熊本)などの九州で生産されていた。
絣は1540年代に琉球より技法が全国に広がり、久留米や備後、伊予絣は今も健在だ。

紬絣と小紋

しかし、この織の技法は木綿に限られたわけではなく、むしろ絹織物からの影響のほうが強い。4世紀の初頭、南方貿易によってインド系の製織法が琉球の久米島を中心に発達し、16世紀から17世紀にかけて結城紬、大島紬、長井紬などの生産に大きく貢献している。さらに、小千谷紬、塩沢紬と続く。
が、この時代に特筆しなければならないのは小紋の模様の精細さと技法だ。友禅と並ぶ一方の雄であるが、17世紀の初頭に武士の式服や裃の柄として用いられた型模様が一般化したもので、江戸小紋とも呼ばれた。江戸好み本来の性格である粋と渋さを反映したもので、鮫小紋、市松、縞小紋、剣菱、小桜などその種類は多い。この影響を受けて生まれたのが京小紋だ。

明治以降の素材変化

以上のように江戸時代は日本独特の和装を染、織、着装などあらゆる面から磨きをかけて完成させた時代であって、むしろ明治以降の文明開化とともに押し寄せた洋装化の変革の中でも庶民のきものとして生き続けた。ただ風俗の変化により和洋の調和が進行した。
まず官吏、軍人などが洋服を制服として着用しはじめたが、一方では正装に使われていた袴が復活して、これが一般化して書生や女学生の制服姿に発展した。また洋装に対抗してケープ風のショールと洋傘の組み合わせも当時の風俗のひとつであった。
高級呉服と実用呉服との区別があるが、これは第二次世界大戦以後のことで、戦前はこのような区別はなかった。素材的には絹、綿、麻が主体であった江戸時代から、明治に入ると政府の勧業によって軍服や官吏服の制服用としての毛織物の生産が盛んとなり着尺地や袴地にセル(サージ)が転用された。これが昭和30年代以降、実用呉服の雄となったウール着尺のハシリである。さらに大正初年には人絹の製造技術が導入されるや、絹と綿との交織物に代わって人絹交織が登場してくる。昭和初頭に米沢から売り出されブームになったプレザン綿紗などがそれだ。
昭和12年、戦時色が強くなりきものの受難時代が始まる。贅沢は敵だとする国策による節約ムードが絹布の使用を制限し、木綿に代わる人絹(スフ)の使用を奨励、きもの姿はモンペと呼ばれる2部式の活動着に変わっていった。そして昭和20年、終戦となり、きものを受け入れる環境を徐々に取り戻していく。
確かに明治以来の洋装化は戦後を機会に一段と強まったが、逆に抑圧された生活の反動がきものの需要を着実に伸ばしていった。ただ生活の殆どが洋風化されてきていたので、日常生活の場からは機能性の面からも排除を余儀なくされていった。このことが“きもの離れ”の要因となり、昭和47年頃をピークに右肩下がりの傾向が続いてきた・・・。