印金(金彩)技法の伝来

印金の最も重要な素材金銀についてふれておこう。
その発見は紀元前3500年頃のメソポタミア文明といわれ、すでに人類はその豪華さと際だった輝きに神秘なるものを見い出し、金銀をして感動と憧れを憶えていた。そんな金の板をさらに薄い箔にすることが行われ、人々の長い夢であった衣服にあしらうことを実現化していくのだが。
インド、ジャワ中国を経て宋の時代に日本に伝わってきたと云われる印金技法。その時代中国で創られた数々の芸術品の中にあって、現在の科学技術をもってしてもその製法、材料が充分には解明できていないものがふたつある。
ひとつは陶器の曜変天目であり、もうひとつが印金(中国では鎖金)だ。
印金に関しては科学解明だけでなく、数多くの染色家が謎解明のため日々辛苦を重ねてきているが、宋の技法そのものを復元するにはいたっていない。しかし、先人たちのそんな努力と研究が、模様においては中国のそれが幾何学的模様の反復が多いのに対し精緻な模様を創作し、技術、素材を含めて日本独自の印金法を作り上げている。

きもの風土記

日本においていつ頃から衣服に金銀が使われだしたかは不明だが、平安時代中期以降、箔の模様が付けられた男女の装束の袴や唐衣などが散見されている面からも、既にこの時代には印金技術が存していたようだ。が、実際には安土桃山時代から江戸時代にかけて、各地の金山の開発が盛んに行われたことも手伝って、長足の進歩をとげたようだ。特筆すべきは摺箔、砂子箔の二つの技法が開発されていたということだ。
以上の点から宮崎友禅斎を礎とする手描友禅よりも歴史的に古いことがうかがい知れが、一世を風靡していた陰金も度重なるぜいたく奢侈禁止令により金箔が使えなくなり、凋落と同時に技法そのものも消滅していく。幕末のことだ。

きもの風土記

  印金技法の再興

明治維新とともに途絶えた印金技法。しかし、したたかな京の工人は京印金として独自の研鑚で復興させていく。
明治37年、奉公先の主、松本熊次郎から再興を示唆された荒木茂太郎は、「元禄時代に摺箔があったのでは」と糸目糊置きの手を休め真剣に考え込む。同じ染色とはいえ、糊置きと印金研究の二足のワラジを履く苦難の道が始まった。
見本もなければ教えを乞う人もいない。中でも悩み抜いたのは金を固定させる糊であった。金箔をかぶせるだけならば誰でもできる。傘屋の使うわらび糊、にかわ、漆、卵白と、手当たりしだいにテストを繰り返す。約10年という長い時間を費やし、やがて摺箔という京印金の礎になるものを完成させる。
茂太郎の苦難の道も一応の終焉を迎える。大正12年のことであった。
その後も、宋鎖金に少しでも近づこうと、糊の研究、金箔の改良など50年にわたって続けられる。やがてこのことを因として特権階級の衣服にだけ用いられた陰金が庶民のもとへと近づいていく。しかし、またしても難問が前途を閉ざす。金といえば古今東西を問わず貴重品だ。時の政府から度々出される使用禁止令もさることながら、第二次対戦が大きく立ちはだかった。他の伝統工芸もそうであったように印金も例外ではなかった。しかし京の工人の底力は、手描友禅の化粧役として脇役に甘んじながらも以前のようにその技術を滅ぼすことなく後世にに伝えていった。
やがて多くの職人たちが、素材、道具、糊などに新発見を加えつつきもの創りの王道を歩み始める。
昭和49年には組合も誕生し、その名を金彩工芸と改め、現在ではガラスや石や皮などにもそのアイテムを広げていっている。