きもの風土記きもの風土記

 「西の西陣、東の桐生」
といわれた桐生は、かつては関東産地の雄として君臨していたが、最近では和装需要の減退とともに生産量は減少している。
桐生産地の起こりは古く、7世紀頃天皇家に仕えていた官女白滝姫が帰郷し、養蚕と機織を村人に伝えたことに始まったとされ、その祀神
が白滝神社をして1200年以上も経た現在も、織物の神様として地元業者の信仰を集めている。桐生市の広沢町に存する400年以上続く旧家の彦部家には幕府将軍・足利義輝の侍女から同家にあてた「仁田山紬注文書」所蔵されており、桐生産地か有数の織物産地であったことを推測できる。
一方、新田義貞が上野の国(現群馬県)生品神社で兵を上げた時、出陣の旗として桐生絹を用いたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦にも桐生絹が大量に使用されたと古事記に残されている。さらに、元和元(1615)には幕府への年貢として桐生領54ヶ村から4千8百反の絹が納税されている。これらを見ても同地での機織がいかに盛んであったかことを物語っている。
きもの風土記
白滝神社
きもの風土記
白滝姫

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彦部家  紬注文書

 「産地の形態」
をとりはじめたのは元分3年(1738)に高機技術が導入されてからだ。西陣の織物師源兵衛を招いた7人の仲間がその技法を習得し、秘密裏に生産を始めた。また、絹商人の新居浜冶兵衛が西陣の機工吉兵衛を招き、西陣の機織道具を入手、3年後には40台を整備し縮緬、絽、紗綾、紋絽などの高級品を手がけ、特にお召しのハシリとなった縞縮緬で名をあげていった。さらに染色整理の技術が京都から伝わると、総合産地としての基礎を固めていく。しかも、文明3年(1783)には吉兵衛が水車にによる水力八丁車を考案、このことが一種の動力革命となり生産を飛躍的に増大させる結果となった。こうして18世紀初期の文化、文政の時代には、徳川文化の塾欄期とあいまって、近世織物史上の黄金時代を迎え、金襴、糸錦、緞子などの高級美術織物も手がけるようになった。西陣に比肩される所以だ。18世紀の後半には桐生地区に600軒の機屋が輩出し、1軒当たり平均10台の機を所有していたと言われるので、既に江戸時代には量産体制の産地に成長していたことになる。
産地に革命をもたらしたのが明治5年頃導入された西洋式の染織法であり、同10年のジャガード機の採用による紋織の製織だ。この技術革新が桐生産地をして長い間その王座を揺るぎのないものにしていた。
現在の産地は、着尺、帯地などは勿論であるが、婦人服地、インテリア製品なども手がける多品種な織物産地となっている。