きもの風土記 きもの風土記 きもの風土記
地上を這う五枝の松 宇根の大蘇鉄 奇岩畳石

  久米島紬の起源と歴史
久米島紬の起源には三つの説がある。その一つは、15世紀の半ば、久米島の堂之比屋が明(中国)に留学し、養蚕技術を持ち帰り、やがて粗布を織りはじめたという説。また、1619年に越前の坂本宗味が久米島にやってきて養蚕を行い、製糸技術を教えたとも伝えられている。さらに、1632年には薩摩の酒匂四郎左衛門が久米島に渡り八丈紬の技法を教えたとも伝えられている。いずれにしても久米島紬は江戸期以前から織り続けられてきたようだ。そしてその苛酷な歴史は、17世紀はじめの薩摩の琉球王朝侵略後直後からはじまる。
人頭税=17世紀中頃、琉球を侵略した薩摩藩は、宮古、八重山をはじめ、久米島にも人頭割の貢租として地租の1部を紬で代納させる制度をしいたのである。この時より久米島の人々は、養蚕、紡糸、染色、製織においたてられ、15歳から45歳までの女たちは村の布屋に集められ、村役人の厳しい監視のもと早朝から夜遅くまで機を織らなければならなかったという。またその厳しさは、織り方が悪かったり紡ぎ量が不足した時には、役人に棒で打ち据えられたとも。貢納布の制度は明治37年、この地方の地租改正が行われた後も続き、実に2百数10年間の長きにわたって島の人々を苦しめてきた。
紬の日の出苦しい人頭税の歴史を持つ久米島紬もようやく自由に生産できるようになり、産業としても有望視されはじめたのは明治29年のことであった。これを機に実業補習学校が創立され、第1回卒業生を送りだす明治43年頃から、生産高は徐々に増加しはじめ、明治44年には年産6千にたっしたと「久米島事情(池口松四郎著)」に記されている。
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第1次大戦勃発後、大正12年にはアブク景気にあおられたこともあって4万2千反という未曾有の生産高を記録する。が、昭和13年をさかいに恐慌の余波を受けはじめる。そこへ追い討ちをかけるかのように昭和16年太平洋戦争がはじまり、久米島紬もこれで終るかに思えたが、当時の仲里村村長であった宇久本政元氏と、太田安徳氏が中心となり年産20数反に落ち込んでいた紬復興に着手した。昭和30年のことである。結果、絶滅の危機に瀕した久米島紬は蘇った。

←チュラフクギ・防風樹として、染料として利用される

  現在の久米島紬 
久米島紬。素朴で繊細な織物は草木染、泥染、乾燥、製織、キヌタ打ちと島の女たちは、今なお織物製造のすべてを自分たちの手で行っている。そして代表的なものは、グールの根と車輪梅の木を裁断し、その煮出し液に糸を浸し茶色に染め、日に干し、泥染めした深い茶褐色のものであろう。
一方、島の山野に自生する豊富な草木で染色され、現在にマッチしたカラフルな絣も作りだしている。


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ユーナ染=その代表的なものがこれだ。
オーハーボーの木炭で染めるユーナ染は、ひんやりとした澄んだグレーが美しい。
比較的地色が濃い久米島紬にあって、春でも秋でも季節を選ばないユーナ染は、最近開発された夏久米島にもその色を落とし好評を得ている。そして、紬にかかわる島の人々は、昔の裂地にある色や柄の復元、自然の素材の組み合わせなど、工夫を重ね今日にあうような製品づくりに日夜努力をしている。
                         
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