きもの風土記
  
7月、梅雨まだ去りやらぬ筑後平野に、水量を増し不気味にしかもゆったりと流れる筑紫次郎。そんな暴れ川の異名を持つ筑後川は、阿蘇の外輪山を源として大分、熊本、福岡、佐賀の4県を潤しながら、不知火燃ゆる有明海へ注ぐ全長143`の九州1の大河だ。
博多からL特急で約20分、鉄橋を渡るとそこには筑後平野の中心である久留米の街が大きく目に入る。木綿絣の王者として、わが国染織史上に重要な地位を占めてきた絣産地としても有名である。

きもの風土記

 一つ 乳の飲み初め

 二つ 乳の首はなれた
 三つ 筆の取り初め
 四つ 手ならい仕上げた
 五つ 糸の縒り初め
 六つ こら機 織った
      (当時の手まり唄

 久留米と織物
久留米市は、明治22年(1889)に市制を施行した全国でも古い都市だが、遠く江戸時代には有馬21万石の城下町であった。当時この地では有明沿岸で綿が生産され、筑後川流域の豊沃な土壌では藍栽培もおこなわれていた。
一方、大陸に近かったこともあって、渡来する諸々の文化とともに染織の技術もいち早くもたらされており、城下から機の音が聞こえぬ日がないほどであったという。しかし、代々の有馬藩主が質素倹約を旨とし、領民に絹の着用を禁じたこともあって、そのほとんどが縞や格子の綿織物でありこれこそが絣の礎だ。

 絣最盛期
きもの風土記
往時のいざり機

きもの風土記
当事の柄見本帖
紺地に白、また青抜きの絵絣や蚊絣を特徴とする久留米絣は、江戸末期の天明年間に井上伝(1788−1869)の手で技術的に創始されたと伝えられている。しかし、その絣の系統からみて薩摩絣や肥後絣、小倉絣と同様、南方から沖縄に伝承された久米島紬の影響を受けたものとみられる。
いずれにせよ、久留米を中心として筑後、八女のほとんどの農家の副業として織られてきたこの地の木綿絣は、明治(1877)の西南戦争後、政府が盛んに殖産興業を奨励したことも手伝って、急速に普及していった。特に昭和の初期にかけてはめざましく、若い男性の日常着として、あるいは農家の活動着としてその素朴さとシブさが広く愛好されるようになり、結果最盛期(昭和5〜6年)には年産250万反にものぼった。この間、粗製乱造物が出まわったり、多くの不正行為があったが、組合が設立されるなどその基礎を確立しながら、織物の改良を含めいろいろと努力がなされてきたことはいうまでもない。