絣の創始・井上伝
きもの風土記
久留米通外町の米屋の娘として成長した井上伝は、12歳の頃から既に、一人前の織り手として優れた天分を示し、一家の生計を支えていた。かねてから小さな胸に何か新しいものを作りだし、お国のために家のためにと始終案じていた。そんな時、たまたま見つけた藍染めの古着にそれまでの縞や格子と違った新鮮な美しさを覚えたのである。
伝はこの布をタテヨコの糸に分解し、それを種糸として括り、染め、織り上げて絣模様を作り上げた。寛政11年(1799)、伝13歳の時であった。
その後「加寿利」と銘うたれた新柄はたちまち霰織、霜降織と呼ばれ「お伝絣」の名は藩内中にひろがった。そして40歳の頃には400余りの婦女子にその技術を習得させたことから、絣織りは機業として南筑後地方に確固たる基礎を築いた。


 久留米絣の4おもしろ
『大柄、小柄』100数10年の歴史と時間に磨かれた久留米絣には、各地区による特色が今もかたくなに守られている。丘陵地帯(八女地区)では小柄及び織締による男物の絣、中間地帯(筑後地区)では中柄及び大柄が、筑後川にそった平坦地帯には大柄及び絵絣が、それぞれ独立して発達してきた。各地が隣接しながらそれぞれの個性を持ち続けているのは、他に惑わされないおおらかな地方人気質がそうさせてきたのであろう。

『荒麻皮(あらそう)』
括りに荒麻皮と呼ばれる麻の皮を用いるが、これで括ることで、早く正確に千変万化の柄を浮き出させることができるのだ。まさに先人の知恵だ。

『タタキ床』
藍瓶は8〜12基並べられており、染める時は濃度の低い下藍から中藍、上藍へと順次連続して染めていくのだが、その間、瓶と瓶の間にあるくぼみ(タタキ床)に何10回となく糸かせを打ち据えるのだ。これは括りぎわがよく染まるように糸を膨らまし、空気に触れさせて藍の酸化を促進するためだという。理屈は解るがなんともユニークな工程だ。

きもの風土記






きもの風土記








『半機』当時高機(長機)は長すぎて取り扱いが困難であったことから、久留米在住の古賀林次郎の手によって明治20年(1787)頃、伊予機を改良して小型機、すなわち半機が完成される。これは綜洸(あぜ)踏みによって杼口が開く工夫がなされており、経緯(タテヨコ)が合わせやすいという特徴を備え、後に久留米絣量産への一端を担うのである。
きもの風土記 きもの風土記 きもの風土記
半機で製織 藍色に染まったタタキ床 荒麻皮と括られた糸
    
戦後の衣服変化のなかでも、また現在でも、久留米絣は、木綿絣の高級品として依然根強い人気をもっている。特に伝産法指定となっている純綿正藍染は、徳島で産する天然藍を醗酵建てして染め上げるがその高雅な風合いは久留米絣ならではのものだ。