きもの風土記
松ヶ岡地区の桑畑
きもの風土記
往時の開墾風景
きもの風土記
蚕室を利用した記念会館
きもの風土記
13デニールの松岡姫
松岡姫の故郷
松ヶ岡開墾場
江戸幕府の開祖徳川家康の重臣酒井忠次を祖とし、17代の長きにわたって栄えてきた庄内藩も時代の流れには逆らえなかった。13代藩主忠篤のとき、明治維新の大変革戊辰戦争において会津、長岡と次々と敗れていくなか明治元年9月、ついに降伏。忠篤は東京は芝の清光寺に謹慎の身となるが、その後西郷隆盛の寛大な処置もあって庄内復帰を許され、道義を翻として郷土の文教に産業に尽力する。その主たるものが明治2年の松ヶ岡開墾事業であった。明治5年、旧庄内藩士は郷土の振興と産業の興隆の念願のもと刀をクワにかえ、松ヶ岡開墾に着手した。総勢3千人を34組にわけ、総面積93万9千坪を翌6年に竣工のはこびとしている。さらに明冶8年から10年にかけ大蚕室10棟を建設するまでにいたった。肩で風をきって闊歩していた侍たちが、汗水たらして開墾した松ヶ岡にクワ苗が植えられ、茶種がまかれる。やがて養蚕がはじまりその蚕種には「松岡姫」の名がつけられた。

限界を超えた製糸業

ヶ岡開墾後養蚕とほぼ同時にはじまった一条座繰りによる製糸の原点を永年、星露を経て現在に受け継ぎ、限界を超えた13デニールを紡(ひ)いた製糸工場は、飽海郡松山町にある。最上川が日本海に注ぎ、出羽丘陵を背後に控えたこの地は、正保4年、庄内藩3代藩主酒井忠勝の遺言により3男忠恒に2万石を分封された松山藩の城下町として栄えた。一方陸奥国城主、佐藤伊勢守正信が戦いに敗れこの地に逃れてきたときに開山され、600年の歴史を誇る曹同宗の名刹、洞瀧山総光寺の寺町でもある。そこ鶴岡に産声をあげた製糸工場がある。「心をこめて1本1本の糸をひくわけですが、大量生産ではそれはできない。目、神経が届かないのです。また繭の煮かたや乾燥、機械の整備度と扱う人の技術、どれが欠けてもいい糸はひきだせない。しかも手繰糸にできるだけ近づけようと常に努力しています」と、ほほえみながら説明してくれる。さらに「同じ土壌の繭だけを使います。寄せ集めではだめ。いい繭があってこそ良質の生糸がつくりだせる。繭が原点です」と続ける。さて13デニールであるが、もともとは機業からの依頼であったという。
「できないというのは簡単。腹をすえてトライしてみよう」の結論のもと研究がはじまる。糸の切断、回転は繭数は4粒か5粒か、バラツキはでないか、多くの難問にぶつかる。そのつど機械に改良を加え、熟練の技術者をはりつけるなど臨機応変に対応する。作業員も増やし訓練を行う。「こうでなきゃならない」と教えこむ。数多くの困難をのりこえやがて13デニールの珠玉の糸は誕生する。
一番最適な時期だけの繭をさらに選繭し、磨き上げるように紡がれた生糸は松岡姫と命名された。