きもの風土記

真岡市は栃木県の南東部に位置し、東に連なる八溝山地、西に流れる大河鬼怒川、市の中央を横切る五行川を抱える自然環境豊かな都市だ。また、東京から100`圏内に属し、東京駅から東北新幹線を使えば約2時間の距離だ。この地方は、古くから、芳賀地方の政治、経済、文化の中心的役割を担い、江戸時代には「真岡もめん」の特産地として全国にその名が知られていた。真岡市が誕生したのは昭和29年。近郊4町村が合併し、いまの形となったが、かつては農業を産業の基盤としていた。
現在は60社におよぶ企業が操業する、大規模な工業団地を有するハイテク都市として発展を続けている。そんな土地の真岡もめんとは。

真岡もめんの盛衰

江戸の昔、真岡もめんは、江戸時代の文化・文政、天保年間に年産38万反生産され、江戸の問屋が扱う木綿の60%は真岡産だったというほどの隆盛を見せていた。周辺を流れる鬼怒川、五行川、小貝川などの河川沿いの砂質の畑に栽培された綿花を原料として生産されていたの「晒木綿」が、当事の真岡もめんで、その水質の良さも綿の晒加工に適していた。この環境の良さが、丈夫さに加えて、絹に匹敵する肌ざわりの木綿を作り上げ、献上品としても人気を集めていた。
しかし、この真岡もめんも、安政5年の開港による安価な輸入綿糸の流入、そして明治初期からの綿製品製造の全国的普及により、急速に市場を失っていき、戦後には残念ながら姿を消してしまった。

きもの風土記 真岡もめんの再興 

「真岡もめんの復活を図り、地場産業の1つとして育成していこう」と真岡商工会議所が音頭をとり「真岡綿保存振興会」が設置される。そしてまず始めたのが技術者の育成。が、そんなに生易しいものではなかった。というのも、糸は手紡ぎ、染材は草木、織は手機という、工程の総てが手作業でなければならない。ということは、糸紡ぎから機織までの全工程を習得させなければならないのだ。
さいわいにも2年後には第一期生を卒業させているのだが・・。
教室が開かれた当初は地元にそれだけの知識者、経験者が見当たらず、途方にくれることもあった。思案の末足利から織機の指導者を呼び、指導を受けた始めたのが昭和61年7月のことであった。
そして現在、真岡もめん工房で製織される製品は、伝統工芸として再び注目されている。