浜ちりめんの前身といえるかどうかは別として、ちりめんの歴史を紐解くとき、この事実に触れないわけにはいかない。というのも、この地にはちりめん誕生以前に既に優れた織物が存在していたという史実だ。
紹介しておこう。
光孝天皇の仁和3年(857)の絹布重宝記に「浜羽二重(浜絹)は江州長浜より織り出す絹なり加賀絹よりは格別糸性良し、惣て長浜より織り出す類、何によらず上品なり、丈は長く染付けは羽二重同様つやのあるものなり」とあり、長浜がいにしえより織物が盛んであったこと、しかも優良な生糸を使用し、その品質が、他産地のものより異彩を放っていたということを物語っている。このことが後のちりめん技術に活かされているということも。

  
琵琶湖北を貫く姉川での合戦に湖北の名将浅井長政は、織田、徳川、の大軍に玉砕したのが天正元年(1573)だ。時を同じくして堺(大阪)に大明国の職工が渡来し、チリメン織を伝えている。秀吉が天下統一後、その手厚い保護により最大の市場であった京都に移っていく。
徳川の時代になると、京都西陣から丹後に渡り、次いで岐阜にも伝播されていった。長浜には宝暦元年(1751)に伝わり今日の繁栄の礎となった。

  
きもの風土記 当時の長浜は日本文化の中心であった京都に近いということだけでなく東海、北陸などへの交通の要路にあった(写真=北国街道)。そのことも手伝ってちりめんや生糸などの販売に非常に恵まれてはいた。
しかし、天領であったため多くの諸侯の分割所領が存し、当然のことながら織物業においてもその自由はままならなかった。そのため真の発展は、彦根藩所領が確定してからといえよう。
宝暦2年(1752)浅井郡難波村(現びわ町)の中村林助と乾庄九郎
の二人によって浜ちりめんは創められた。
困窮していた。そんな時に訪れてきた丹後は宮津の蚕糸商人からちりめん製織の話を聞き、これぞ農閑期の内職にと思い立つ。
きもの風土記
早速彦根藩に願い出てその年の内に機業家15軒、機数20台、生産高70疋に成長させた。そして京都へと市場を求める・・。
西陣の機業者はこれを許さなかった。自己市場を脅かすものとして、浜ちりめんの京都移入の禁止令をうちたてたのだ。早々にしての障害、林助、庄九郎にとっては大きな打撃であり、その打開のために八方手を尽くしたのはいうまでもない。しかし、両名は強訴の罪に問われ4年間二条役所の牢に幽閉されることになる。そのことは、浜ちりめん創生記念碑(写真)に記されている。
宝暦5年(1775)、両人は彦根藩に対し京都での販売の道が開かれるよう援助を嘆願する。藩はこれを受理し、やがて道が開かれる。宝暦9年11月のことであった。その間、京都の近江屋喜兵衛と共に林助と庄九郎は、目的達成のために京都町奉行所の役人にちりめん2巻、金子3000疋などを贈ったという記実もあり、両名が行った裏工作を含め、その奔走ぶりが伺える。
浜ちりめんは彦根藩の手厚い庇護のもと京都市場への販路を得る一方で、その主導権を藩に握られ明治維新までその枠の中で発展することになる。
宝暦10(1760)年に入って、林助、庄九郎は織元に任じられる。当然のことながらその後の織物の行く末に寄与し、生産地も浅井郡を起点に各地へと勢力を広げていった。
その後、紆余曲折を経ながら明治19年には、現在の織物組合の礎となる、「近江縮緬絹縮業組合」が創設されている。