きもの風土記きもの風土記
観光地として名高い萩、津和野、益田を結ぶ中心に自然との共同を自負する日原町がある。小さな駅舎を出ると故徳川無声をして「これはこれ日本一の鮎どころ」と、称賛せしめた鮎の宝庫清流高津川の美しい流れが目に飛び込む。岸辺には地場産業として栄々と歴史を築き、技術を磨いてきた石西社が絹の町にふさわしく活気ある機械音を響かせており、顔を上げると、小高い山の上に新しい観光資源として85年開台した、日本でも有数の天文台が、シンボリックに町を見おろしている。
一方、この小さな町をセに187号線を車で南東へ、さらに原生林に囲まれた山間の県道を奥へ入ると中国山脈から湧き出る清水を含んだわさび田が、透きとおった空気と共に姿を現す。そこには香り高い多くの山の幸の王として君臨するわさびが、いかにも清楚さと清潔さを自慢するかのように春を待ちわびていた。
美しい自然に調和し歴史と風情を築いてきた日原町。この町が行政と製糸業と農家との三位一体で、人口飼料による養蚕を模索、今まさに新しいシルクの里を宣言しようとしている。
  
  
きもの風土記
 ▲ 石西社
蚕糸販売農業組合連合会の製糸工場であり一方、このプロジェクトの中心になるであろう石西社についてすこし触れておこう。
弘安元年(1282)以来、この地方一帯は津和野藩が統治していたが、銀、銅を産出した日原だけは天皇領とされていた。そのせいもあってこの地は県下でもそれほど養蚕は盛んではなかった。しかし、大正時代になると、片倉や郡是など大手の製糸会社がこの地を地盤として繭の争奪戦を行うようになった。養蚕農家にとっては特約取引が浸透し、大きなメリットを得る一方で、弊害、すなわち価格面での不安定さを常に余儀なくされていた。そこで農家は、大正12年(1923)日原村新地に繭の乾燥場を建設して対応するも、昭和2年(1927)に乾燥場が焼失、翌年には蚕糸業の恐慌という二重の大打撃を受け、農家は組合の設立を切に望んだ。この事態を深く憂慮したのが当事の日原村長、神崎直三郎であった。神崎は産業組合の先駆的指導者であった大庭政世などと共に組合製糸の創立を計画、昭和4年(1929)3月23日に有限責任生糸販売購買組合連合会「石西社」を誕生させた。
現在日本でもまれな「14中」の高級糸を生産する石西社は、中国地方唯一の製糸工場として年間約70dの生糸を生産している。