きもの風土記
きもの風土記

日本海を一望する豊かな自然と長い歴史をもつ門前町は
静と動の文化集積地だ
 曹洞宗大本山、諸嶽山(
しょがくさん)総持寺と
 その消長を共にしてきた門前町の文化を静とするならば
 北前舟が運んできた大陸文化の玄関口として栄え
 全国各地からの名僧や信心深い老若男女がもたらした湊町の文化は
動といえよう。
 活気が今も息づく自・禅・海(自然・禅の里・日本海)の町に
 あたかも歴史を刻んだかのような顔をしている紬がある

  
9月末、千姿万態の海岸美を持つ日本海はあたかも筆者を迎えるかのように静かであった。ここは能登半島 西北部に位置する鳳致(ふげし)郡門前町千代である。ここにこの地の自禅界に惚れこんだ一人の男がいる。能州紬の生みの親、上島洋山がその人だ。もともと京の西陣に生をなした洋山は、伝統的な帯地を父から引き継いでいた。そんな中、昭和42年の秋、観光気分でこの地を訪れていた洋山は思いがけなくも門前町町長と出会う。「地場産業となるべき織物を育ててほしい」という思いもよらない町長の言葉であった。町長の熱心さもさることながら、すでにこの地に魅了されていた洋山は、とっさに心の中で決意を固めた。後日談である。
やがて洋山の門前町通いがはじまる。酒屋の納屋や、番屋を借り、機道具一式を京都から運び込み懸命の指導を繰り返す。しかし、経験のない織り人たちの努力とはうらはらに、遅々としてその技術は向上しなかった。そんな中にも村の女性たちの生来の辛抱強さと器用さを見逃さなかった洋山は、ジャガードを使わず平織を中心とした紋織、つまり綴織の原点である「手すくい」による模様織の技法に活路を見いだしていった。絣技法が基本であるはずの紬にあってすくいによる能州紬が産声をあげたのは2年後のことであった。
この頃になると少量でも本物を作りたいと願う気持や、やっと一反織り上げた村人たちの悦びに溢れた表情に涙したことなども手伝って、この地に住もうとの決意が固まりはじめていた。本物を育てていくには自身が根をおろすことだと考えた洋山は、翌45年工房建築に着手、永住を決意する。

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この紬に結城や大島のような伝統はまだない。が、この地にも古くには養蚕が、糸紡ぎが、草木染が、自らの手で創造した歴史がある。そのせいか能州紬もこの地にすっかり溶け込み、古くから機音をたてていたかのような錯覚をおぼえる。それはともかく、この織物はすくいという技法を駆使しているが、刺繍のような精密さを要求されるため「手繍」と呼んでいる。そしてこの精密さこそが雅と艶やかさを演出し、絵羽訪問着として異彩を放つ。また、その技法が故に全く同じ絵模様を作りだせないというのもその逸品姓を高めている。

 
きもの風土記
能州紬の本拠地絲藝苑。玄関に1歩足を踏み入れると能登の旧家を彷彿とさせる工房だ。にぎやかな笑い声に誘われて2階へと足を運ぶ。そこには数人の女性たちが手機に向かっていた。
なごやかな中にも真剣な眼差しが手元を見据える。「失敗したときには血の気がひくが、思い通りのものができた時には涙がでるほどうれしい」と話してくれた女性の言葉が何故か印象的であった。
「お茶でもいかがですか」と案内された部屋には、現代人を時代に引き込む囲炉裏があった。運がよければこの囲炉裏端で上島洋山さんじきじきのもてなしで、馳走をいただけるチャンスもあるという。1度門前町を訪ねてみては・・・。