きもの風土記

寒冷多湿な新潟県。中でも屈指の豪雪地帯として知られる小千谷では、人々は昔から雪をなりわいとして文化を育んできた。そんな厳寒の雪の屋根の下千数百年にわたり根気と真心で織り続けられてきた縮布(ちじみ)。
そんな縮布を原点として秘伝を受け継いできた匠たちがいる。6月、なお残雪を残す日本アルプスがまぶしい。
 

信濃川の中流域に位置し、昭和29年3月に市制がしかれた小千谷は、平場で積雪2mを超える豪雪地のため昔から農家は、男は出稼ぎ、女は家庭で縮布を織るという内職を行ってきた。つまり、小千谷の縮布は、冬期間の農家の副業として重要な位置を占めてきた。
歴史的にみると、天保5年(1843)に書かれた聞書に「70年以前までは、濃人の稼にて馬を立置き宿役を勤め、見世棚を出し、侯者わずかの内に候処追々繁昌に隋へ、十倍の振合に相成・・・」とあるように、縮布の生産地として繁栄したこの地には商人も多くなり、また、慧
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縮布製造の真図
眼な他国人が店舗を構えるなど、商業地としての基盤を、確立していった。
現在、仏壇や錦鯉で有名なこの地では、観光にも力を入れているが、縮布の誕生は、この街の文化に深くかかわってきた。そんな緑と水の自然郷の生活と文化の有様は、市内にある小千谷サンプラザで知ることができる。
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明石堂


小千谷縮布は千年以上の歴史を持つ越後の麻布にその起源をもつ。創始者といわれる堀次郎将俊は、もともと播磨国(兵庫県)明石藩士の家に生まれた。浪人した後当地方の山谷村に住み、村童を教えていた。
そんな将俊は、織物(明石ちじみ)の技術にもくわしく、もともとこの地に存在した麻布をもとに緯糸に強い撚りをかけ皺を作ることに成功した。その後、花模様や縞、飛白(かすり)を織り出すこと、ついで晒し法、仕上げ法などに独特の改良を加え、品質を一新していった。そしてその技術を広く土地の婦女子に伝授、小千谷縮布の基盤を築いた。堀翁は延宝7年(1679)9月2日60歳で病死、極楽寺に葬られた後、小千谷縮布の創始者として小さな祠が建てられた。この御堂を明石堂と呼んでいる。


小千谷の縮布は、冬に織られ雪に晒される。伝統という二文字に拘束されながら織り出される宿布の気の遠くなるような製造行程の総てをここで述べることはできないが、例えば苧績み(おうみ)だ。苧績みとは手紡ぎのことだが、通常きもの1反分には700gの績み苧(麻糸)が必要とされる。しかし、熟練者が夜なべをしても1日6gがせいぜいだという。これだけでもその一端をうかがい知ることができよう。加えて独特のシボをだすための撚り糸や居座機(いざりばた)。多くが機械化されていく中、重要無文化財の指定を受けた(昭和35年)小千谷の縮布は、手作業での行程をクリアし、なおかつ経糸緯糸とも績み苧を使用する。大変な作業であるが、このことが、伝統を今に伝えただけではなく、機械には無い手造りの暖かさを人々に与えているのであろう。
まさに重要無形文化財の真骨頂であり総てを含めて生きた化石の感がする。この地の文化財にかかわる若手は話す。苧績みでは細さの調整、裂き方など、いづれも奥が深い。また、居座機に関しては自分の体で調節しなければならないので、心穏やかにしていないとだめ。大変な仕事であるが文化に触れていると思うと非常に楽しい」と。
 
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製織を待つ績み苧
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不揃い禁止の苧績み
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青苧
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小千谷縮布

手績み糸による縮布を織るにはいざりばたを用いる。居座は、昔ながらのものであるが、経糸の張力を腰で加減でき、また、独特のオサやヒを使って緯糸を打ちこむなど、他の織機では表すことのできない布味を作る特色を持っている。
昔は12、3歳になると太布を織り技を磨き、嫁入りの必須条件になっていた。その巧拙は直接嫁口にさわり、また嫁いだ後も、嫁姑の間で技の違いから悲劇があったという。
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