きもの風土記
 
10月中旬、色づいた木々の梢ごしに奄美連山が青い。「ミイニシ(真北風)が吹きはじめた、もう秋だよ」と土地の人はいう。まだまだ夏の名残りを残す南国の空からは、強い日差しがふりそそいでいる。平均気温21℃の奄美大島ではあるが、さすがにマリンブルーに囲まれた白い砂浜には波とたわむれる人の姿は見えない。
夏の思い出は海に託していざ出発、紬、焼酎、自然、歴史、新発見に・・。

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歴史
奄美史は、大和朝廷との交流があった奄美世(アマンユ)、按司と呼ばれる豪族たちが支配した按司世(アジンユ)、琉球王朝が支配した那覇世(ナハンユ)、薩摩藩が直轄地とした大和世(ヤマトユ)の4つに区分される。原始から9世紀までを奄美世といい、階級社会以前の共同体時代であった。しかし、文献によると、7世紀後半から朝廷の政策により派遣された遺唐船の南島路として、重要な役割を果たしていたという。その遺唐使が廃止され、中央との交流は完全に閉ざされてしまう。
9世紀には、階級社会の時代、按司世に入るが、12世紀の源平の動乱後、本土の武将が支配者としてこの地を治めていたとも伝えられている。これにまつわる伝説を紹介しておこう。
平清盛の孫資盛(すけもり)は、安徳天皇と共に壇ノ浦を出発、追っ手を逃れ喜界島に落ちのびた。その後、2人の弟を呼びよせ、3手に分かれ奄美大島を攻略したという。そして、資盛は加計呂摩諸鈍(かけろましょどん)、弟の有盛は浦上(現名瀬)、従弟行盛は戸口を、それぞれ治めたと伝えられ、今も行盛を祀った神社や、源氏の来襲に備えた遠見番の後が竜郷町(たつごちょう)に残っている。この地に残る平家伝説である。
15世紀半ばになると、沖縄では按司からさらに進んで、その頭領である世之主(よのぬし)が支配する段階に達していた。世に言う琉球王朝であり、奄美もこの支配化に置かれるのである。那覇世は慶長14年頃まで続く。
近世には、島津氏による琉球征伐がなされるが、これを大和世といい、西郷南州(隆盛)が竜郷町に潜居した(安政6年)のもこの時代であった。
時代は下って昭和21年、奄美は日本から分離され米軍の統治下に入り、異民族支配の苦しみを体験するが、全島民が参加した血のにじむような復帰運動が功をを奏し、日本復帰となるのだ。
昭和28年12月25日のことである。

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西郷隆盛翁遺宅 行盛神社 あやまる岬の展望台


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自然
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アダン
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ピンクのハイビスカス
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ソテツの群生
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島料理
大阪空港から約90分、島の北端笠利町にある空港に着く。早速レンタカーで奄美の自然に飛び出した。亜熱帯の風が肌に優しく触れ てくる。空港から約10分、観光客が必ず訪れるという島の東北部にあるあやまる岬に行ってみた。なんでも起伏があやにおりなすマリに似ていることからこの名がついたという。太平洋に突き出た岬には、東に喜界島、北にトンバラ岩、周りはコーラルリーフの礁座がパノラマのようにひろがる。絶景かな。
南国の植物は豊富だ。ガジュマル、アダン、ハイビスカス・・。
眼下には、赤っぽい実をたわわにしたシテツの群生がひろがっている。
夜、奄美1の繁華街、ヤニガワにくりだし、黒糖焼酎と島料理を賞味した。実に美味であった。
2日目、早朝6時より島の南部へとハンドルを握る。道路わきのハイビスカスが真っ赤に匂う。道中、昔のままのたたずまい持つ集落が点在する。大和村、住用村、宇検村。一様に珊瑚を積み重ねた塀で囲まれている。まるで要塞のようであり、先述した按司世を、彷彿とさせる。各集落の塀の中から、島独特のメロディが秋空にすいこまれていく。「8月踊りの練習だろう」と、道行く人が教えてくれる。海辺では数人の老婆が楽しげに話ている。何か話を聞こうと輪に近ずくと古仁屋(瀬戸内町)に東洋1のサンゴ群があると、教えてくれた。しかし、カメラを向けると蜘蛛の子を散らすように逃げられてしまった。実に素朴である。古仁屋へとスピードを上げる。あいにく小雨が降ってきた。港から大島海峡を海底観光船で約30分、突然、望窓に大パノラマが展開する。澄度の高い海中にはテーブルサンゴを中心に様々なサンゴが色鮮やかに乱立し、その間を泳ぎ回る色とりどりの熱帯魚。まさに幻想の世界だ。
古仁屋を後にして名瀬に向かう。途中群倉(ぼれぐら)に出会う。かつて、穀物倉庫として使用されていた高倉の集団だ。
いつしか小雨もやみ夕日が海を真っ赤に燃やす。夢の中の1日であった。タイムスリップの1日であった。
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珊瑚塀   古仁屋のサンゴ 群倉(ぼれぐら)
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夕方の南部の海