大音に養蚕や糸紡ぎ、絹織物の技法を伝えたのは中国は呉の国の女工であった。
伝承は語る。歴史は応神天皇の時代(1937)、織物の技術を大和の品部(しなべ=諸官司に配属された特殊技術者の集団)に伝えるため招かれた4人の女工が、朝鮮半島から若狭の国を経て渡来してきた。道中、大音に立ち寄り、長い船旅の疲れをいやしたとある。そしてその礼にすべての技法を伝授していったという。
その後、伊香具神社の神職の伊香厚行(いかごのあつゆき)が、香具山の麓に湧き出る独鈷水(どっこすい)を汲み取り、この地で産する生繭を煮て製糸を試み、良質の生糸を誕生させる。喜んだ厚行は村人に製法を教える一方で、宮中へ冠の紐や太刀の下げ緒をつくり献上する。このことが大音の糸のはじまりであったとも。

   
きもの風土記
伝承は伝承として軽々に扱うことはできない。しかし・・・。
伊香具地区の生糸が邦楽器の弦を目ざしたのは、伊香厚行が宮中へ献上したことに端を発すると推察する。おそらく献上した冠の紐か何かが、宮中の雅楽寮(うたまいのつかさ)の目に、弦としてかなったのであろう。これも推察の域を脱し得ないが、京都が邦楽器弦糸の主たる生産地であった江戸時代に、奉公に行った木之本の人々がその技術を持ち帰ったのかもしれない。いずれにせよ自然や、繭や、座繰り技術があいまって、楽器糸という紐状の形態に優位性を発揮したからに違いなく、そこに活路を見いだしたのであろう、と想像する。でなければ大音の繭は繭として出荷されただろうし、長浜という地を近に持つこの地が白生地を織らなかったわけがないと思うのだが・・・。
古くから、伊香具の里では大音の琴糸、西山の三味糸といわれ、昭和30年の中頃までは村の7割が生糸の生産に携わっていた。他府県からの働き手も多いときには200人を数え、琴糸や三味線糸をつくる撚糸業者も5軒が稼動し、全国各地へ活発に卸していた。
残念ながら現在は、大音にある“糸とり工場”と看板を上げる「大音特殊生糸組合」1軒となってしまった。

   
邦楽弦楽器の原糸は、強靭性を必要とするためセリシン(糸に含まれるタンパク質)を除去しないように工夫されるが、きものは柔らかさと染色が求められるために、先染めは生糸の段階で、後染めは白生地の段階で精錬という過程を経てセリシンを取り除く。組紐も同様の糸を使用するのだが、この点が全く正反対なのも面白い。
かつて大音の糸繰り農家は、養蚕から糸までを一貫生産していたことは述べた。が、現在では岐阜県美濃加茂市から生繭を入れているが、セリシンの含有量も多く最もしなやかで上質な春繭(はるこ)にこだわっている。必然的に6月下旬から7月中旬の糸繰りとなり、セリシンを除去しないように座繰りといった製法が取られている。
糸になるまでの工程を追ってみよう。
まず入荷した繭は、火を入れた炉の熱風に当て「殺蛹(さつよう)」をする。中のさなぎは死んでいるため腐らないよう乾燥温度を調節し、生繭に近い状態で留めおく、いわゆる「生挽き法」だ。そして70〜80℃に沸かした鍋に繭を入れ「座繰り」を行なう。続いて座繰器で小枠に巻き取った糸を大枠に巻きかえる「揚げ返し」を行い、一束400匁(1.5s)の単位に揃える。最後に大枠から外し一束ずつ束装し、完成となる。

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殺蛹
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生挽き繭
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大枠
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後達磨式座繰器 繭1個から1000b セリシンいっぱいの生糸

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