北海道手織りの会会長貝澤雪子さんに聞いた。
アイヌ民族伝統の樹皮の織物「アットゥシ」。オヒョウやシナの皮を材料とし、仕立てた着物は祭や冠婚葬祭用のほか、普段着にもなる。私は今もアイヌ民族が多く暮らし、その文化が色濃く残る北海道平取町の二風谷にぶだにで育ち、60年近くにわたって織り続けてきた。
アットゥシは北海道各地に存在する。中でも道東や道北、胆振いぶり、そして二風谷が位置する日高沙流川流域などが江戸時代には産地として知られていた。丈夫で水にも強く、ニシンの漁場や本州と蝦夷地を行き来した北前船の仕事着としても愛用された。交易品として本州以南でも流通しており、歌舞伎で役者が着る演目もある。

   大事なのは下準備 材料も色も天然素材

一番大変なのは材料の下準備だ。まず山奥に生えるオヒョウやシナの木の幹に切れ目を入れて、皮を剥ぎとる。次に、内側の内皮と外側の粗皮をナイフを使って丁寧に剥がす。内皮を5時間ほど釜で煮たのち、ぬめりを取るために沢で洗ってきれいにする。乾かないうちに、10枚ほど重なっている内皮が破れないよう慎重に手で1枚1枚薄く剥がしていく。
染めるには、落ち着いた色合いを出すために天然素材を使う。キハダやクルミの皮を煮つめて染料にする。ヨモギ、ヤマブドウ、キキョウ、藍など様々な植物を使い、それらを混ぜることもある。いざ染めてみると考えてもいない色が出るなど、やればやるほど発見がある
その後、内皮を数ミリに細く裂いて糸にする。結び合わせて伸ばし、ようやく糸玉が完成する。これほどの手間がかかるので、1年間に10反分くらいの糸玉しかつくれない。冬の間は材料が採れないため、6月ごろに採取して保存しておく。先回りして準備する必要があり、いつも季節と競争するような感じだ。


   200年以上同じ織り機 観光ブームで売れたことも 
ようやくここから織りに入る。糸を織り機に通し、縦糸と横糸を組み合わせ柄を作っていく。織り機は200年以上前から変わらない。すべて手作業なので、気を抜くとすぐ幅にばらつきが出たり、糸がほつれたりする。いまだに気に入った作品ができないくらいだ。 子どものころには「熊送り」というアイヌ民族伝統の祭がまだ残っていた。アットゥシを着ている人たちを目にして育ったが、織り方などはまるで知らなかった。19歳で嫁いだ先が、代々アットゥシを織ってきた家で、手伝いをした瞬間に「これだ」と感じた。二風谷が育んだ木のぬくもりを感じる手触りに心がほっとした。
義母に指導してもらいながら、毎日制作に励んだ。優しい人で丁寧に教えてくれたが、希少なオヒョウは織らせてもらえず、シナで練習を重ねた。後にオヒョウを織り始めた際には、義母の記憶を頼りにした。
1960~70年代の高度成長期は、北海道への観光ブームが起きて、飛ぶように売れた。義母と寝る間も惜しんで、織り続けた。当時は作り手もたくさんいて、糸作りを手伝う子どもたちの姿が二風谷のあちこちで見られた。いい時代だった。
家庭では4人の子供に恵まれたが、私が36歳の時に夫が早世してしまう。女手ひとつで育てるため、伝統料理を振る舞う食堂までやった。苦しい時期もアットゥシだけはやめなかった。「義母から学んだ技術を途絶えさせるわけにはいかない」との思いで、10畳ほどの作業場の床に座り、夜も寝ないで織り続けた。

   反物は高価になった 手頃な財布や帯を作るも 
2013年には、アットゥシが北海道で初めて国の伝統的工芸品に指定される。最近はメディアにも取り上げてもらうことが増えて知名度は上がったが、反物で数十万円と高価なため、現在はアイヌ民族でも所有していない人が多い。少しでも多くの人に触れてもらいたいと、比較的手ごろな財布や着物の帯も作っている。
80年代後半に観光ブームが去ったあと、織り手はどんどん離れていった。現在は数人が残るのみ。大変な作業だから、担い手はそう簡単には増えない。長く座っていると足が痛くなる。
私は喜寿を迎えた。まだまだ未熟だが、娘や息子の嫁もアットゥシを織る。アイヌ民族の伝統を残すため、ゆくゆくは彼女たちに未来を託したい。