明治以降、反物の生産が途絶えていた山形県新庄市の絹織物「新庄亀綾織しんじょうかめやまおり」が、100年以上の時を経て完全復活した。
手触りがしなやかで、気品ある光沢が特徴の「幻の織物」を復活させる原動力となったのは、その魅力に魅了された県外出身の女性と、後世に伝えたいと願う地元出身の織り手の女性の存在だ。

  
戊辰戦争きっかけで 生産途絶える
 ルーペで拡大した新庄亀綾織

新庄亀綾織は、新庄藩9代藩主・戸沢正胤まさつぐが1830年に技術者を招き、藩の特産品として生産を奨励したのが始まり。 縦横に織り込む一般的な織物に比べ、斜めに織り込む分、手間がかかり、20センチを織り上げるのに熟練者でも丸1日かかるという。生地をせっけんなどで煮込んで不純物を落とすことで、しっとりとした風合いと手触り、気品ある光沢が生まれる。だが、68年の戊辰ぼしん戦争で城下町の大半が焼かれ、生産が途絶えた。70年に士族の婦女子を集めて生産が再開されたが、1903年に養蚕に使用していた施設が中学校の下宿として使われることになり、完全に生産が途絶えた。
85年に任意団体「新庄亀綾織伝承協会」(新庄市十日町)が発足し、財布やふくさなど小物の生産が再開されたものの、着物に使う反物の生産は途絶えたままだった。


  復活に協力
 西陣の細尾・米沢の新田
反物と阿部さんと沓沢さん
反物復活の立役者の一人は、同協会で広報戦略を担当する沓沢沙優里さん(58)だ。
沓沢さんは愛知県出身で、2008年に結婚を機に鮭川村に移り住んだ。15年秋、新庄市の同協会にたまたま立ち寄った際、展示された亀綾織の美しさに魅了された。元々着物好きで、「何とか着物として復活させたい」と、無給で協会を手伝うことを決めた。
反物を復活させるためには、卸先の確保などを含め老舗織屋の協力が不可欠。沓沢さんは16年10月、京都市の京都染織文化協会に相談し、亀綾織のサンプルを送ったところ、西陣織の老舗「細尾」の細尾真生社長の目に留まり、細尾社長から「どんな所で織っているのか一度見たい」と連絡があった。
細尾社長は後日、新庄亀綾織伝承協会を訪れ、亀綾織を見るや、「素晴らしい織物を後世に残すべきだ。協力するので一緒にやろう」と申し出たという。
その後、とんとん拍子でことが進み、細尾社長から米沢織の老舗「新田」(米沢市)の新田源太郎社長を紹介された。織り方などのアドバイスをもらえるようになり、反物の生産の環境が整った。
  織り手は阿部さん 売り手は細尾
反物を織る中心的な役割を果たしたのが同協会の織り手・阿部友香さん(31)。新庄市出身で、県外の短大を卒業後11年5月に同協会の求人募集を見つけ応募した。織物は未経験だったが、見よう見まねで機織り機の使い方を学び、織り方を覚えた。
ただ、小物の生産のみで売れ行きは芳しくなかった。また、専従の織り手は阿部さんのみで、「反物を作ろうなんて考えたこともなかった」と阿部さんは振り返る。
そんなとき、細尾社長から「今までよく頑張ってきたね。これから一緒に作ろう」と言われ、反物に挑戦することを決意。現在は織り手は3人となり、半年近くかけて白と桜色の2反を仕上げた。
10月6~7日には山形市でお披露目会を開き、参加者から「亀綾織の存在を初めて知った」「織りが
緻密で美しい」と称賛の声が上がった。早ければ来年にも、細尾を通じて着物生地として販売される予定だ。
阿部さんは「多くの人のお陰で復活できた亀綾織を二度と途絶えさせたくない。後世に引き継ぐために織り続けたい」と話し、沓沢さんは「新庄発のブランドとして、国内だけでなく世界にその魅力を発信していきたい」と意気込んでいる。