大阪南東部の河内地方は江戸から明治期にかけ、西日本最大の木綿産地だった。1704年に大和川の付け替え工事で生まれた旧流域の砂地が栽培に向いており、綿が盛んに作られる。手織りの綿布「河内木綿」は植物などをモチーフにした明るく力強い文様を、藍染めで表現していた。しかし、機械による大量生産が普及し、明治末期には姿を消してしまう。丈夫で長持ちするのでオムツや雑巾に転用され、古布はあまり残っていない。私は河内木綿文様の藍の美しさをよみがえらせたいと考え、40年以上にわたって復元に取り組んできた。

  
40歳を過ぎて・・・ 木綿史研究家と知り合う
復元された唐獅子牡丹文の筒型 
河内木綿藍染保存会名誉会長村西徳子さん。東大阪市、柏原市とともに中河内と呼ばれる八尾市で1931年に誕生。河内木綿の存在を知ったのは40歳を過ぎてからだという。子育てが一段落し、会社勤めの傍ら日本画を学んでいた。公募展で入選した日本画を市に寄贈したところ、お礼のはがきに印刷されていたのが鶴亀や菊唐草の文様。そのおおらかな美しさに魅了された。
そんな時に、木綿史研究家の辻合喜代太郎と知り合い、八尾市のご自宅に通うようになる。廊下には著書「河内木綿譜」などとともに衣装ケースが積み上がり、中に貴重な河内木綿の古布が入っていた。それを借り受け、文様を和紙に模写する作業を続けた。これがきっかけとなる。

  紆余曲折
 型絵藍染研究所設立 
復元された大菊唐草文の中 
河内には昔から嫁入りの際、布団などを藍で染める習慣があった。必然的に文様は縁起物が多くなる。初期は菊や牡丹、鶴亀などが多かったが、江戸後期には当時はやっていた朝顔が登場。江戸幕府が倒れると禁じられていた葵が加わった。
文様を書き写すうちに、染めに挑みたくなったという。まずは文様の型の彫り方を学ばなくてはいけなかった。最初に京都の型染め教室に通った後、柏原市在住の伊勢型紙の職人に教えをこう。布は地元の問屋で手織りに近い風合いの品を選び、藍の生産で知られる徳島まで糊置きした布を持参して染めに行った。
河内木綿の染めには型紙を使う以外にも「筒描き」という手法がある。染めを防ぐ糊を渋紙の筒に入れ、絞り出しながら文様を描く。自由に描けるが絵心が必要になるし、筒で描くのは難しい。
そこで考えたのが古布の文様を模写し、それに基づいて型紙を彫るという手法。この手法を「筒型」と自ら名付けた。筒型ではのれんや箪笥たんすを覆う油単といった大きな作品を復元できたが、ただ、使っている藍染め容器には大きな布を1度に入れるキャパが無かった。徳島特産の藍染め「阿波しじら織」を手掛ける企業まで何度も通っい克服。
1941年4月、会社を定年退職した翌日に、八尾市の自宅近くに型絵藍染研究所「徳子工房」(現「藍工房 村西」)を開設。河内木綿の藍染めの伝承を目指して教室も始めた。98年には仲間とともに「河内木綿藍染保存会」を設立。3年後にNPO法人となっている。阿波しじら

  国内外で多くの展示会
 大阪万博向け工芸品の開発したい
20011年には八尾市の姉妹都市の米国ベルビュー市で、復元した河内木綿の展示会を開き、2年後には地元で活動するロシアバレエの講師が縁結び役となり、日ロ文化交流の一環として、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館での展覧会に出品した。河内木綿を熱心に眺める米国人やロシア人の姿に、言葉は通じなくても美しさは伝わるのだと感じたという。こうした取り組みが評価され、09年には八尾市文化賞を受賞している。
国内でも数年に1度、展示会を開いている。16年には八尾市文化会館プリズムホールで、河内木綿で作った衣装のファッションショーを開催した。制作したのは着物のほか、作務衣やポンチョ。市民がモデルとなりランウエイを歩いている。
「私は今年、米寿を迎えた。今後は他分野との連携などでブランド向上を目指すと共に、25年の大阪万博へ向けて、伝統工芸品を開発していきたい」と村西さん。