江戸時代から「西の西陣、東の桐生」と称された織物の町で、140年以上の歴史を誇り、産地を先導してきた老舗帯メーカーの合資会社後藤。桐生織物協同組合理事長も務める後藤隆造(72)代表社員に、業界の現状や、将来の可能性を聞いた。
合資会社後藤(桐生市東)は、明治3年(1870年)に初代後藤定吉が創業。「伝統と新しい技術で織りなす帯の心」をテーマに、丸帯、袋帯、細帯などを手掛ける。七五三の祝い帯「都恋人(トレンド)」は、全国で売られている。2005年公開のハリウッド映画「SAYURI」では、主演のチャン・ツィイーらが、同社の帯を締めたことなどで知られる。主屋やノコギリ屋根工場など計11件が06年に国の登録有形文化財に指定された。従業員15人。

  
消費者ニーズを知れ 今後はアイデア勝負
きもの風土記
「歴史の古い会社だ」
明治3年に曽祖父が始め、今では桐生で最も古い機屋となった。初代は、常に新しいことに挑戦した。中でも画期的だったのが、明治中期から使い始めた洋式染料だ。それまでは草木染めが主流で、時の経過と共に色が落ちることが多かった。染料を使うと、常にバランスの取れた均一な商品ができた。そして桐生全体に広まり、織物を安定的に生産できるようになった。戦時中は、工場などの鉄類はすべて政府に供出し、何も動かせない時期もあったが、戦後約20年がたち、ようやく戦前と同じ規模に戻った。

「工場は、桐生のシンボルでもある立派なノコギリ屋根工場。見学者も多い」
昨年の群馬デスティネーションキャンペーン中は、外国人も多く見学に訪れ、工場や帯を見て、「very good」と言われた。屋根が3角形で、窓は原則、北向きに取り付けられている。東向きや西向きと違い、室内に入る太陽光の量に変化が少ないので、帯地の色合いを確認するのに最適だ。昔は町中で、ガシャーン、ガシャーンと機織りの音が響き、大声を出さないと近くの人と会話できないほどだった。

「ただ、機屋の数が少なくなり業界の現状は厳しい」

町で聞こえる機織りの音も少なくなった。代表社員になった頃は、売り上げが年間約3億円だったが、昨期は震災の影響をまともに受け、過去最低の約4000万円に落ち込んだ。消費者の購買意欲が低下するとともに、東北の披露宴会場などが被害を受け、結婚式などできものを着る機会が失われたためだ。戦後の一時期のように、何でも作れば売れる時代は終わった。

「何が求められる時代と見ているか」

欲しいと思わせるものを作る時代だ。重要なのは、消費者自身のニーズに気付いてもらうこと。この前、飲み屋に行ったらノンアルコールのハイボールがあった。こんなものが出来たのかと驚いた。「私はこんなものが欲しかったのか」と直感的に気付く商品を作らなければいけない。

「では、新しい時代にどう対応するか」
桐生のきものや帯の魅力を全国に発信しようと、市内の機屋4社が集まり、2004年から新ブランド「きりはた」を作った。和装は珍しい斬新な柄で勝負しており、毎年、都内で新作発表会を開いている。具体的には、ビワなどのフルーツのほか、じょうろやシャベルなどのガーデニングの道具類、月の満ち欠け模様をちりばめた帯などだ。いつまでも「産地」にあぐらをかいているわけにはいかない。新しいものにチャレンジしなければ生き残れないし、桐生にはその風土がある。

「8月から桐生織物記念館が刷新され、資料展示室や販売場も拡張された」
桐生駅から近く、多くの観光客が集まる。714年に桐生から朝廷に「あしぎぬ」を献上した記録があり、1600年の関ヶ原の戦いでは、東軍に2000枚以上の旗絹を献上したとされる。桐生織の歴史は1300年に及ぶが、市内に資料を展示する場所がなかった。市外の人だけでなく、桐生市民にも勉強になるはずだ。

「今後の展望を」

帯は本業だ。真面目な良い製品をこれからも作り、伸ばしていきたい。ただ、今はデニム地や皮のきものが登場するなど、他との差別化や奇をてらった物も飛び出している。その中で、古来の「和」以外のものに対し帯地を使えないかどうか模索中だ。海外の一流デザイナーから桐生織の評価は高い。絹の美しさは世界共通のものだ。素材はいいので、「化ける」可能性はある。海外展開も含め、今後はアイデア勝負になるだろう。桐生織