信濃の国と呼ばれた古(いにしえ)より、蚕の国であった信州では、上田藩が寛永3年(1626)、飯田藩は寛文12年(1672)、松代藩と松本藩は宝暦年間と、各藩では桑樹を奨励した。結果、紬は、自然発生的に自給自足として織られていた。
天正11年に上田城を築城した真田昌幸により機織を奨励された上田藩。そこで生まれた上田紬は、江戸時代からの上田縞、上田紬の名声は、特有の風合いや柄模様にもあったが、特に三裏縞と呼ばれ、表地1枚につき裏地を3回取り替えるほど丈夫なこと、本藍染と草木染の特色ある染色技法で、色が褪せず堅牢ななところに主たる理由があったようだ。
戦時中、衣類がまだ欠乏していたころ、国は上田紬などを技術保存織物に指定した。しかし、まだ自家用を織る程度で、紬が企業として再興していくには力不足であった。昭和25年頃軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことが提唱され、草木染や媒染材の研究をはじめ、と同時に、生産量の増大、販路の開拓に努力がはらわれるようになった。閉業中の機業も操業を開始、農賃織物として縮緬などを力織機で織っていた機業も参加し、上田紬の量産化と販路の拡張に努めた。

 伝統工芸士の女性
 
13年度は602人
千数百本の縦糸の間隙に横糸を引くための器具を滑らせ、すかさず筬(おさ)を手前に2回振って糸を打ち込む。かつて「蚕都」と呼ばれ、蚕糸業が盛んだった長野県上田市の上田紬の伝統を守り継ごうと、織物作家の小岩井カリナさん(41)は、機織り機で軽快な音とリズムを刻みながら絹を織る。
江戸時代に大島紬、結城紬と並び「日本三大紬」の1つとされていた上田紬は、縦糸に生糸、横糸に真綿から紡いだ糸を使う。光沢があり、手触りもよく、上記したように「三裏縞」の別称を持つ。
生家は江戸時代から蚕種業に携わる小岩井紬工房。1947年に織物業に転向した。ただ家業への関心はなく、大学卒業後は劇団で女優として活躍した。転機は女優業に区切りを付けて留学したアイルランドでキルトスカートなどの現地文化に触れた時。「縦糸と横糸が織りなす無限の美しさを秘めた上田紬を守りたい」と、その魅力に初めて目が向いた。
2004年に工房に入り1から勉強した。紺やグレーのしまや格子柄が主流だったが「若い人が着たいと思えるきものを作りたい」と、明るい色や幾何学模様の創作に力を入れた。高齢の男性職人が多い中、女性職人の中で最若手の小岩井さんが作る作品は若者を中心に支持を集めつつある。
1反を織るのに費やす期間は3〜4週間。商品が売れたときの喜びはひとしおだ。「きものの良さを1人でも多くの人に知ってもらうために織り続けたい。上田紬の伝統を継ぐ人材も育てたい」と、後継者難の現状にも挑む意気込みだ。
伝統的工芸品産業振興協会によると、一定以上の実務経験と技術を条件に認定している「伝統工芸士」の女性は、1998年度の430人が2013年度には602人に増えた。同協会は毎年「女性伝統工芸士展」を開催。業界を超えた交流も生まれている。信州紬