きもの風土記
上杉神社
 米沢織物工業組合

 置賜紬伝統織物協同組合


米沢産地はみちのく唯一の産地としてその健在ぶりを示しているが、その歴史は、慶長3年に(1598)にさかのぼる。上杉家の支藩直江山城主の上杉兼続が米沢城主となった際、既に領内から産出していた真綿、木綿、紬に目をつけ、本格的な開発に乗り出した。
同15年に直江氏は、先進産地の京都から縮緬織工と染工を招きその指導で絹織物を始めたが、縮緬は失敗に終わり紬、羽二重に活路を見いだす。
本格的な産業としての開発は、上杉家中興の祖で知られる上杉鷹山公の積極的な奨励によるもので、17世紀中期の安永5年に越後の小千谷から、縮師(ちじみし)を招くとともに領内に機業場を建設し藩士の子女に技術を習得させた。その後寛政年間に縮の他新しく米沢絹竜紋を開発絹織物産地米沢の名を高めた。
当時、みちのくには秋田の畝織、秋田八丈、福島の川俣絹、仙台の仙台平などがあったが、産地の規模や生産量において米沢が群を抜いていた。
このようにして米沢の絹織物は発展してきたが、特に正絹糸織と紬の技術は、国の伝統的工芸品として指定され現代に受け継がれている。米琉、白鷹の別名で知られる米沢織は、民芸的な味わいをもった高級品として評価されてきたが、その後も渋い民芸調の風合いに現代感覚を加えるなど、異色名存在として市場を高めていった。
紅花の故郷としても知られる米沢は、常に伝統を意識しながら量産に拒否反応を示して民芸色の強い織物を大事にしてきているが、そこには東北人の素朴さと粘り強さが織物にこめられているといっていいだろう。
産地としては、もともと多品種を誇るため黄八丈、男物、八掛、小袋帯、男帯、座布団地に加え広幅織物などを生産、小袋帯や角帯は派手な動きこそないが地道な需要に支えられている。
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