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     加賀染振興協会



きもの風土記
白山
  小松織物工業協同組合

加賀絹の発祥の地といわれる小松産地は、合繊和装の一面を持つ白生地産地だが、3世紀頃には機織が始められていたと伝えられている。が、正確には4世紀後期(470年代)の雄略天皇の時代に、百済の帰化人である秦氏から蚕桑と織物技術を習得し、天皇家へ奉献する絹織物を製織したことから機業として発達していった。
その後、室町時代(1338)に将軍足利氏に献上したことら加賀絹の名声が高まり、江戸時代の藩主前田利富公が寛永16年(1639)に小松を機業地として勧業奨励することによってその基盤が確立以来、羽二重をはじめ撰糸上絹、大小紋絹、裏絹などが産出されていった。
明治初期にドビー機が導入されるにおよんで、紋八織、紋平絹、絹絽などの独自の織物を考案しこれを契機に紋織が盛んとなって全国屈指の紋織産地として発展していく。
品種別では、駒綸子、綸子縮緬、平綸子などだが、いずれも長年培ってきた紋織技術を土台にしたものだけに、小松産地ならではの独創品であった。しかし、時代の推移と需要の変化により産地も本絹和装だけではなく、化合繊分野へも生産の幅を広げていった。

   
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     浜縮緬工業協同組合


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    丹後織物協同組合




きもの風土記
西陣の町屋
  西陣織工業組合

日本最大の和装産地京都は、歴史と伝統に支えられた衣服文化のメッカだ。そしてその一角を担うのが西陣だ。
西陣の名の起こりは500年余の昔、応仁元年足利将軍の相続問題で細川勝元と山名宗全の両武将が対立し、11年間戦乱が続いた。これが世にいう「応仁の乱(1467)」であるが、この時山名氏が西軍方として陣を構えたのが現在の西陣にあたり、いつしか西陣の呼称がついたと言われている。
が、織物の中心となったのはさらに古い時代にさかのぼる。
文献によれば、4世紀初めの統一国家誕生の頃、中国絹帛の織法が秦人によってもたらされ、仁徳天皇京都の山瀬の地を選び、これら旗人に養蚕機織を営ませた。その後、雄略天皇は各地の秦人を招集し機織振興の労をねぎらう。これに感激し各地の機織はさらに盛んとなていく。このため天皇は献上される絹を収める大蔵を建立、酒公をその長官に任命、禹豆満佐(うずまさ)の号を賜った。現在の京都の太秦(うずまさ)はそのゆかりの地だ。
6世紀中期の大化の改新によって大蔵省管轄の織部司が設置されるに及んで、各地の機織や工人は統括れた。織部司は官営のハシリであり、長官の下に佑、令史、挑文師の職を置いて諸国の織部を直轄した。延暦13年(794)、平安京遷都、すなわち京都に都が移されたことで名実共に機織の中心となった。
武家の台頭により官延を中心とした公家貴族の勢力が衰えるにしたがい、織部司の機能も薄れ、逆に私(荘園制度)の機織が各地で隆盛となり、保元の平治の乱(1157−1159)以後織部司は解体され大舎人(おおとねり)や大宮に供する綾や絹は民営の形で残された。
300年後の応仁の乱で京都は灰塵に帰したが、泉州は堺に難を逃れていた多くの工人が新しい技法をにつけて戻り、東陣後に「練貫方」という座が作られて、羽二重や練貫を織り始め、西陣跡にも綾を織る大舎人座が誕生した。この座こそが西陣機業の基礎である。
永生10年(1513)に大舎人座は綾織の権利で練絹座と争い、翌年に公家の美濃の守・藤原朝臣が来からの伝統を尊重して「大舎人座だけが綾織物類の由緒を守るべし」と判定を下す。そしてそのお墨付きの下付により、以後は、大舎人座に属する31家によって製織が続けられる結果となった。このような形で根を下ろした西陣機業は、天皇家や幕府の手厚い保護と助成を受け、目覚しい発展を遂げていった。
江戸時代の宝永3年(1706)の記録では、機屋の数2000軒以上、また元禄年間(1688−103)で周辺160余ヶ町という大機業地であったという。享保17年(1732)には西陣大火に見舞われ、7千余台の織機が全滅に帰したが、50年後の天明5年(1785)には、2120軒、2580台の紋織を生業とする高機屋と、紋織以外の機屋420軒が立ち直った。
現在の産地は、帯地、着尺を主力としているが、燃糸業、染色整理業、意匠紋紙など、織物に関するあゆる業種が集まって、そのスケールの大きさはマンモス産地そのものだ。


きもの風土記
吉備神社
  備後絣協同組合

山陽新幹線福山駅から福塩線で40分ほどのところに新市町がある。現在はこの町を中心に府中市、福山市芦田周辺で伝統品の綿絣とウール絣が生産されている。
この産地は江戸時代の嘉永年間(1848−1853)に織られていた縞木綿織を主力に発展していったもので、当時は神辺縞、水呑縞などの太糸縞ものを産出していた。その後、唐糸絣を開発、これが文久の頃(1861)から明治7、8年頃にかけて出荷が盛んとなり、備後絣の名が広まっていった。
絣産地としては久留米、伊予に比べ半世紀ほど後発だが、その開発意欲には目を見張るものがある。例えば、絣糸を手括りするのでは量産ができないと明治39年、絣糸捲締機を発明、急速に生産を拡大させている。さらに、構図の多様化を図る絵絣糸巻締機も考案されている。このように手作業による絣加工技術を自動化することによって量産産地への体制を固めていった。
今、備後は、綿絣とウール絣を中心に製織しているが、産地独特の経緯絣の意匠を活かした技術は、依然高く評価されており、伝統ある絣産地として期待されている。

きもの風土記
しおさい公園

  伊予織物工業協同組合

四国の松山周辺で織られている綿絣で、久留米、備後と共に綿着尺産地の双璧だが、生産量で見る限りでは昔日の面影はない。伊予絣が全国生産量の25%を占有し、第1位の供給産地にあったのは明治37年頃で、昭和6年に久留米産地に王座を明け渡すまでは勢いに乗っていた。この地の絣の発祥は、寛文年間(1688−1703)にオランが長崎に持ち込んだ縞木綿をまねて製織されたといわれている。が、もともと伊予は恵まれた気候風土と瀬戸内の地の利が助けとなって綿作を盛んにし、これを背景に元禄年間(1688−1703)には、既に綿織が産出されていた。が、久留米絣の始祖といわれる井上伝女が、享和年間に四国巡礼した際、伊予の住人鍵谷カナ女に絣技術を伝授し、これをもとに絣を織ったのが産地の始まりとされている。
伊予絣の主要用途は、発祥の当時から日常着、活動着として庶民の間で愛用されてきており、特に久留絣より、やや大衆性があったことから、明治、大正、昭和の実用和装の需要を支えてきた。
現在でも民芸色のより強い綿絣としてその素朴さが見直されており、瀬戸大橋の開通をきっかけにブルンや小物類なども手がけるようになった。

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博多織協同組合

久留米絣協同組

喜如嘉芭蕉布事業協同組合

久米島紬事業協同組合
 
    琉球全般
石垣市織物協同組合 那覇伝統織物事業協同組合 宮古織物事業協同組合
与那国町伝統織物協同組合 読谷山花織事業協同組合 琉球絣事業協同組合
琉球びんがた事業協同組合 竹富町織物事業協同組合 
 
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