沿 革
信濃の国と呼ばれた古(いにしえ)より、蚕の国であった信州では、上田藩が寛永3年(1626)、飯田藩は寛文12年(1672)、松代藩と松本藩は宝暦年間と、各藩では桑樹を奨励した。結果、紬は、自然発生的に自給自足として織られていた。
飯田藩が養蚕に力を入れはじめた寛文年間以降、生糸や真綿の手紡ぎ糸を利用した織物が、上田地方や伊那谷で盛んに織りはじめられ、この頃から紬織物は農家の副業として受け継がれていった。
寛延(1748)になると、紬を京都に送り出しており、以後宝暦から明和にかけ、毎年のように送られていたと記録にはある。
いずれにせよ紬が商品化されたのは大正末期のことであり、昭和の中頃までは、技術保存の名のもとに、わずかに続けれれていたが、これとても第2次世界大戦で中断せざるをえなかった。

きもの風土記 きもの風土記

 農賃から紬産地へ
ともと養蚕地帯として発展してきた信州の機業は、需要者である養蚕農家から屑繭からひいた生糸を受け取り製品にして納入する、「農賃」方式で形成されていた。県外からの注文も受けるようになって、力織機が数多く導入され、農賃全盛の時代を迎えるのである。しかし、昭和30年代に入ると、養蚕農家も一般市場からきものを購入するようになり、農賃形態が、根本から揺らぎはじめた。
農賃から紬へ。といっても紬復興のため力織機を捨て手機に還るという、いわば時代逆行的転換を成しえるのは容易なことではなかった。が、自然環境、伝統の技術、県の振興策、そしておりからの紬ブームが加わり、県下全域にわたって生産は活発となり、紬産地への転換をはかった。

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 個性が特徴
生糸、天蚕、玉糸、真綿の手紡ぎ糸と、その豊富な原料を膨らみのある丈夫な織物に仕上げるためより吟味した糸に草木を主とした染材と染め技術で、縞、格子、絣、無地調など渋い光沢と民芸的格調の高い染めが施される。これを手機で織ることにより風合いや素朴さを引き出すのだ。
信州の紬は、各地により原料から織りまで、それぞれのノウハウがある。さらに各機業にまでそのオリジナル性が分化されている。まさに信州紬とは、個性の集大成であるといえよう。