季節を通じて深い霧に包まれるという但馬地方。冬になるとその積雪はゆうに1bを越えるという。このような自然条件が、絹織物にとっては格好の湿度を提供する。
筆者が訪れた時のシルクロードもあたり1面銀世界で、その美しさとは別にこの地の自然条件の厳しさを垣間見せていた。
2月下旬のことである。
  
きもの風土記 きもの風土記



その発祥の歴史は古く今から約2
00年前の文化年間(1804〜1822)とされているが、これにまつわる話がひとつ残されている。文化年間より少し前の天明年間の1785年「当時中山の在であった伊之助なる人物が、丹後は峰山でちりめんの製織技術を習得し、この地に持ち帰った」というのだが、残念ながらその話を事実として確認することはできない。
養蚕の地には「紬」というのが相場だが、この地に絹織物が根付いたのは、丹後に隣接していたからであろうことは推察できる。しかし、不思議なことに移入されてからの約60年間に渡っての史実が全くの空白であり、農家の副業として織り続けてこられたのであろうことを想像するしかない。史実上はっきりしてくるのは140年前の弘化年間(1844)からである。当時赤花の住人であった橋本竜一が上州より器械製糸の技術を持ちかえり、この器械の改良に30年余の時間を費やし、明治8年(1875)良質の生糸の生産に成功する。と同時に、その糸を使った製品を東京上野の共進会に出品し当時の農商務卿でった西郷従道(西郷隆盛の実弟)より表彰される。このことが但馬ちりめんの真の意味での始まりであろう。
明治35年頃から同業組合的な家内工業として発達してきた但馬ちりめんは、殆どが手織りであったという。しかし明治末期より大正初期にかけて足踏自動織機が導入され、大正6年には石油発動機を動力とする自動織機が開発される。これをきっかけとして従来の無地ちりめんから現在の
但馬の本流である紋ちりめんへと切り替っていく。この間幾多の紆余曲折のあったことは容易に想像できるが、いずれにせよ、このことがちりめん産地を形成する礎となり、やがて家内工業から歩を進め但馬ちりめん工業組合へと組織化されていった。昭和10年のことである。
翌年には天皇家へ「ちりめん九重織」を献上するなど産地としての名声をゆるぎないものにしていった。そして、筆者のいう但馬のシルクロード沿いに出石町へと発展していったのもこの頃だ。
きもの風土記
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縫取ちりめん
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紋ちりめん
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八丁撚糸機にかかる糸

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冒頭でも述べたように、季節を通じての深い霧、1bを越える冬の積雪、こういった自然条件が絹織物に欠かせない湿度を提供する。加えて但馬人の粘り強い気質が独特の風合いを持ったちりめんを織りなしてきた。豊富な雪解けの地下水を利用した水撚り八丁撚糸機からはほどよいシボを表現する基となる自家製強撚糸が、ゆっくりと巻きとられていく。
紋意匠ちりめん、駒綸子、変り無地ちりめん、総てが紋ちりめんだ。その他、八丁撚糸使いの長襦袢地豪華な絵羽織用の縫取ちりめんがある。いずれをとっても独特の強い撚りのかかった生糸で製織されており、しわになりにくく、しなやかな優美さと豪華さを兼ね備えた、高級ちりめんだ。その生産において、ピーク時には遠くおよばないが自家製八丁撚糸を駆使するなど、かたくななまでのものづくりへのこだわり。そして但馬人ならではのあくまで手を抜かない誠実さと研究心。これらを失わない限り高級ちりめん産地として力強く歩み続けるにちがいない。
なお、出石町ではブランド色をより引き出すため出石ちりめんと呼んでいる。