ここで但馬のシルクロードのもう一方の地、出石町の歴史に触れておくと。
但馬の史都と呼ばれる出石町は、古くは古事記、日本書記にも記載されている歴史の地だ。その始まりは但馬地方開発の祖神といわれる新羅(しらぎ)の王子天日槍(あめのひぼこ)が、垂仁天皇3年の時に帰化してこの地を拓いたと伝えられている。世に言う「天日槍伝説」であるが、室町時代より但馬地方の中心地として栄えた城下町としても有名だ。
足利尊氏に仕えていた山名時義が室町幕府より、但馬、因幡、伯耆、出雲、隠岐の守護に命ぜられ此隅山(こぬすみやま)に築城したのが史都としての出石の始まりだ。その後、全国66ヵ国のうち11ヵ国を手中にし、「6分の1衆」と呼ばれるほどその勢力を伸ばしていった。が、明徳の乱(南北朝末期)により、1族は内紛を起こしわずか3ヵ国の守護となってしまう。しかし足利将軍の相続問題にからみ、当時の城主山名宗全(時義の孫)は、細川勝元と京都を中心に11年間に渡る争いを起こした。いわゆる応仁の乱(1467〜1477)だ。これにより再びその勢力を盛り返すことになる。

きもの風土記 きもの風土記 きもの風土記
出石城 出石焼 辰 鼓 櫓

戦国時代に入ると山名氏の勢力は徐々に薄れ、羽柴秀吉により此隅山城落城、守りを固めるため城を有子山に移し、最後の抵抗を試みるが、天正8年(1580)、秀吉の弟秀長の攻撃に、山名1族は滅んでいった。
その後、播州竜野から小出吉政が城主として封ぜられ、五万三千石を領し、その子吉英の時に山城を廃し山麓に平山城、すなわち出石城を築き城下町づくりを行った。
小出氏は、9代100年間続いたが後継ぎが無く断絶、松平忠徳、仙石政明と引き継がれ明治に至る。出石の伝統工藝である淘石を原料とした出石焼や特産品の出石そばの誕生もこの時代、すなわち江戸時代中期とされて
いる。

藩士の登城を告げる太鼓を打ちならした出石町のシンボル辰鼓櫓(しんころう)、砦の役をなしたという26ヵ寺、千本格子の長屋や虫籠窓のある町家、そして出石城趾。いずれも兵(つわもの)どもが夢の跡であり、深い歴史の中にタイムスリップしたような感銘を受ける。
但馬乙女が機音を響かす但馬の国のシルクロードを、その人情故に、後髪を引かれながら後にした。
この日もやはり雪であった・・・。

きもの風土記
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宝永3年(1706)信州上田城より仙石氏がお国替えになった際に持ちこんだのが始まりと云われ、以来出石を代表する味覚となっている。
その素朴な風味とコシの秘密は「3たて」、すなわち挽きたて打ちたて、茄きたてにあるという。中でも「寒中冷たいそばを食するのが通だ」と、地元の人は言う。
出石の手打ち皿そばは、出石焼の白い小皿に盛られたちょっと黒めのそば5皿に、薬味はトロロ、ふりねぎ、わさび卵、トックリに入った店固有のだし汁、これがとりあえずの1人前だ。そのうまさに思わず何10皿もたいらげる人がいるというが、それよりも驚くのはこの小さな町に50軒ものそばやがあるということだ。一方、但東町側には赤花にそばの郷があり、そこではそばの実を収穫しておりそば打ちの体験もできるという。



出石の祭りには、城下町としての歴史性を持つものが数多くある。中でも代表的なのが11月3日に行われる「お城まつり」だ。この祭りのメインはなんといっても大名行列の槍振りだ。これは文久3年(1863)当時の出石藩主仙石久利の奥方が初入国するにあたって赤坂奴を連れ帰った。その際に見事な槍振りを披露するのだが、これに憧れた町民有志が藩主の許しを得て赤坂奴から習得したのが始まりとされている。
現在でもその絶妙な槍さばきは圧巻で、そこには素晴らしい歴史性を垣間みることができる。
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