きもの風土記
きもの風土記
きもの風土記
幕藩体制が確立された3代将軍家光の時代に遡る。「郷村の百姓は死なぬように生きぬようにと、合点致し、収納申付様に」というのが、幕府の農民政策の基本であった。丹後においても例外ではなく、厳しい年貢の取り立て、相次ぐ凶作、加え手副業の織物も「当処精好之儀ハ下々不用之物故捌モ悪敷次第ニ絹紬ニ跡々相続致し候」(宮津機方丈)とあり高級品がゆえに販路がせばめられていったという。このような八方ふさがりの時代に丹後のちりめんは誕生するのである。峰山藩の絹屋佐平治は、このような事態を憂いて「宜敷商売ニ相成ベキ品ヲ織出タキ願心ニヨッテ」(丹後縮緬初之由来)禅定寺の観音に17日間の断食祈願を行い、単身西陣へ赴き機屋に奉公する。時は享保4年(1719)3月のことであった。しかし当時の西陣では地方織物の勃興に不安を抱き、その技法を極秘にして地位を守っていた。いうまでもなく佐平治は、シボをうまく織りなすことはできなかった。
同じ年の9月、佐平治は、再び断食祈願に入りその足で西陣へ出向くのであった。新しい奉公先で佐平治は、糸撚り車の仕掛けのある土蔵造りの密室へ偲び入り、暗闇の中手探りで仕掛けやシボの様子を確かめた。
その年も暮れようとするある夜のことである。粘り強い努力によって亨保5年3月、丹後ちりめんは、峰山において産声をあげたのである。
一方宮津藩でも三河内村の山本屋佐兵衛、加屋町の手米屋小右衛門が佐平治同様に流行のちりめんに目をつけ、西陣の機屋に奉公に入った。志を同じくする後野村の木綿屋六右衛門のカゲになりヒナタになりの援助があって、峰山に遅れること2年、享保7年(1722)峰山に持ち帰った。2
きもの風土記 80年の歳月を織りなしてきたちりめんロードの歴史は、時々の政策天変地異、景気動向等々、数々の障害を乗りこえてきた先人たちのまさに苦闘の歴史といっても過言ではない。そんなちりめんを未来永劫にと・・・。
物作りこそ原点と願いつつ機の音を後にした。