きもの風土記きもの風土記

   
徳島県にはシジラとか藍染めは見られるが、もともと染め材としての藍草の栽培地だということを、まず認識していただきたい。
さて、わが国に産する藍には、蝦夷大青、琉球藍、蓼藍があり、阿波藍の原草は蓼藍である。蓼藍は1年生の草木で中国からの渡来と思われているが、わが国では奈良時代から栽培されており、その種類も30種以上を数えた。現在は丈が短くて横に張り、収穫量の多い小上粉が主流をなしている。これには紅と白の可憐な花を咲かせる2種類がある。
阿波藍の起源は不明だが、紺屋役銭を徴税したという歴史状の事実から、鎌倉時代には藍作が存在していたと思われる。産業としての阿波藍は、天正13年(1585)、蜂須賀家政が国主として阿波へ入国し、四国三郎と異名をとる暴れ川吉野川流域の藍作を藩の中心的政策としたことに端を発する。家政は、吉野川に堤防を築かなかった。というのも、毎秋の氾濫による新肥土の流入が、藍草を茂らせたのは事実だが、もう一つの理由は、連作がきかなかったからであろう。また、家政は栽培から販売にいたるまでの一切を管理する一方、他国へ漏れぬよう、藍作に携わる者の出入国をも厳しく取り締まった。

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優秀製藍に贈られた栄誉の懸盤 藍大市で発行された品質鑑定証

このような藩の庇護のもと江戸時代の藍業は、隆盛を極め全国に阿波藍の名声を高めていった。そして、時代の富と栄誉の象徴藍大尽と呼ばれた藍師、藍商たちの活躍振りは、全国有名神社に藍師たちが奉献した灯篭、狗犬、玉垣などが、数多く見られることでも推測できる。また、大藍商の屋敷は県内に文化財として保存されてり、全盛時の栄華を今に彷彿とさせている。
明治以降も藍作は盛んに行われたが、明治36年(1903)、作付面積15.000fをピークに、インド藍、科学染料の台頭により減少傾向をたどり、明治40年(1907)には4fまで衰退した。

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