天保年間(1830−1843)の改革で絹織物一切の製造と着用が禁止される中、また身分制の厳しかった中で、農民や町人でも着用しても良いとされた唯一の絹織物が紬であった。その理由としては、外見が木綿風であるということがひとつ上げられよう。しかし、最大の理由は出荷できない屑繭にあった。
当時の養蚕地では、正繭は出荷し、残った玉繭や屑繭を捨てることなく真綿とし、その真綿から手紡ぎで糸を引いていた。これを染め、手機で念入りに織り上げたものが紬だ。当然のことながら同じ紬ではあっても、それぞれが地域の特徴をもって生まれてきているのは言うまでもない。しかもその殆どが自家用であり、柄も今と違って縞や絣といった単純なものであった。が、その技術の深さを奥に秘め表に現さないという渋い贅沢品であり、このことが町人階級の間でおおいにもてはやされ、自家用から商品として発達していった。このことから考えると絹糸そのものを素材として、締機で柄をつける大島紬などは、絹織物であるといえるかもしれない。伝統の純粋性と織り手の心を包み込む素晴らしい織物、それが紬ではあるが、なぜかフォーマルとして認知されていない。これは、自家用であったことを含めた歴史的背景や、外見が木綿風で
あることなどがその所以であろうか。




きもの風土記


きもの風土記


きもの風土記

  
岩手県盛岡市付近はかつて南部と呼ばれていたことから、南部紬の名称を持つ。一方、多年草木の「むらさき」の根を使うことから、南部紫紺染としても有名だ。絣の括り材に和紙を使用することや、玉繭をよく煮て麻布に包み、急流にひたし、重石をすることなどが特徴的だ。

  
別名置賜紬といい、米沢琉球紬の略称。山形県長井町が集散地のため、長井紬とも呼ばれる。
米沢藩主・上杉鷹山の奨励により織りはじめられたと言われている。玉繭からの手紡ぎ糸(玉糸)を経糸に、緯糸には生糸を用いたタテヨコ正絹の絣風の紬だ。

  
起源は不明だが約350年前に集散地である茨城県結城市の名を冠して呼ばれるようになった。
経緯糸ともに真綿から手紡ぎした紬糸で、経糸は緯糸に比べてやや太い糸を使用する。色的には藍染が多く渋みがあるのが特色。細かい絣柄を組み合わせながら居座機で織るため、できあがりには期日を要す。
また、他の類似品と区別するため本場結城紬と称している。