きもの風土記きもの風土記

 

養老の昔、秦澄大師が開山した信仰の山白山の西麓手取川の上流に沿って点在する集落がある。
糸引きから機織りまで、古くからの技法を守りながら織り続けてきた牛首紬の織里、白峰村だ。標高500bの山間部に位置するこの集落は、日本屈指の豪雪地帯としても有名だ。冬の4ヶ月間は陸の孤島と化すことがしばしばであり、中でも三八(さんぱち)豪雪(
昭和38年) は、積雪5bにもなり電話線も切断されたという。「その風俗はすなわち太古のごとく、その気候は異域のごとし」と書かれた白山遊覧図化の一説からも、白峰の厳しい自然のおおよその想像はつくであろう。
現在の白峰村は、牛首、風嵐、河内、桑島、下田原の5地域を併合して呼んでいるが、雄大な白山とともに生きてきた嘗ての白峰の民の暮らしぶりは、神仏を信じ、自然への順応とその恵みによって貫かれてきた。耕地率1%にも満たないこの地では、春から秋にかけては男が山に入り、焼畑農業に精をだす。そして土地の貧困故に、跡地に山桑(野生)を植え、養蚕や製糸に心血を注いだ。一方、豪雪に見舞われる長い冬には、女が紬を織り、布を晒す。
伝承によれば、源平の戦いに敗れた平家の一族が桑島におちのびその秘伝を村人に教えたのが始まりとされている(逆説もある)。 
     

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白峰村 三・八豪雪 山 桑

  
昭和63年牛首紬は、国の伝統的工芸品に指定された。しかし、長い歴史を織り込んできたこの紬も順風満帆できたわけではない。明治42年、製糸業であった水上鶴吉が機織に転じるなど、昭和15年には生産量は1万反を数えるまでに成長した。しかし、太平洋戦争に端を発し、1人2人と廃業を余儀なくされていく中、水上氏の工場もついに閉鎖せざるをえなくなった。「このままでは伝統の灯が消える」と、ひとり残された加藤三次郎は悲痛な叫び声をあげ、息子改石と共に炭焼きに生計を頼りながら、必死に養蚕に励む。一方、妻、志ゆんも次代への継承をはたすため夜遅くまで機に向かった。昭和25年のことだ。
苦労に苦労を重ね、昭和35年には400反まで生産できるようになった。しかし、昭和41年第二の紬存亡の危機に見舞われる。
手取川ダム建設の構想が発表されたのだ。
湖底に沈む「紬の里」として、桑島が紹介され、牛首紬の名は全国のきもの愛好家に知れわたるのだが、皮肉なことに紬にかかわる人々の移住地への離散が始まった。ここでも志ゆんの「私がやめたら紬が途絶える」の声に励まされ、三次郎、改石親子は移住の地(白峰村)で、人の手を借りながらも、見事再生させる。両親の執拗なまでの伝統への想いを見続けてきた改石は、父の没後(昭和51年)その意思をつぎ、両親から引き継いだ技術に自分の創意工夫を重ね、紬つくりに没頭していく。
後に志ゆんは、牛首紬の伝統を60年もの永きにわたり守り通した功績で、黄綬褒章を受賞している。

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手取川ダム
きもの風土記
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ありし日のしゆんさん 移築された杉原家 白峰村のたたずまい