結城紬の起源

東京から東北本線小山駅経由水戸線で2時間足らずの結城市一帯が本場結城紬の産地だ。結城紬は遠く室町時代に豪族結城家から年貢として幕府に献上、それがいつしか結城家の名を冠して「結城紬」と呼ばれるようになったというのが大方だが、それ以前はこの地方の名をとって常陸(ひたち)綾織とか、常陸紬といわれていた。
崇神天皇の代から、常陸の特産品として織り出されたこの紬は、古代の多屋命(おおねのみこと)が現在の茨城県久慈郡に移り住み、織り出した織物を長幡部絹(ながはたべのあしきぬ)と呼び、その技法がそのまま後世に伝えられて結城紬の基礎となったという伝説もあるが、いずれにせよ、この地が古くから織物の産地であったということは、正倉院に常陸国産の調布あり、また、「延喜式(えんぎしき)」にも調絹(ちょうし)1562疋という数量が上げられているのを見ても明らかだ。そんな歴史
を有する常陸紬は、糸の太さもまちまちで節もあったが、見栄えより質実を旨とした当時の武士気質に適い、鎌倉、室町時代の商品として広く流通していった。しかし、こうした結城紬の永い歴史の中でも、その存亡にかかわる大きな出来事がおこる。
慶長6年(1601)に行われた国替がそれだ。この時、結城家第18代城主であった結城秀康(徳川家康の二男)
は、67万石を与えられ越前へと移動させられる。家臣はもとより僧侶、職人、商人にまで及ぶ町ぐるみの大転居となった。当然のことながら紬を始めとする諸産業はすっかり衰えてしまうのだが、幸か不幸か結城紬の産地であった現在の結城市周辺は、その大部分が天領であったが故に、幕府から代官として伊奈備前守忠次が派遣されてくる。城下の蓑退を憂いた忠次は、その振興策として紬の改良発展のために力を注ぐ。幕府に依頼し信州上田から織工を招き染色の改善と柳条の織り方の技術を導入するなど、その技法を著しく向上させたことが大きな要因となり、結城紬の名声を確固たるものとしていった。
きもの風土記

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結城氏(ゆうきうじ)

ここで少し結城家について触れておこう。
下野国(しもつけ=栃木県)の豪族小山氏を祖に持つ結城氏は、鎮守府将軍「藤原秀郷」に発し小山政光の三男朝光(ともみつ)が源頼朝の挙兵に従い、頼朝の信を得て下総結城郡を与えられ結城氏を興したと伝えられている。以後子孫は鎌倉幕府の支配に属すのだが、6代目朝祐(ともすけ)の時代には足利尊氏に従い、そののち子孫は鎌倉公方に仕えた。
永享の乱の後、永享12年(1440)氏朝(うじとも=12代)は、公方足利持氏の遺子を奉じて挙兵したが、上杉氏に攻められ、子、持朝とともに敗死する。このため結城氏の滅亡の危機となったが、一族の成朝(しげとも)が入って家を継ぐ。この間、鎌倉期から室町期を通じて勢力を維持拡充し、佐竹家や、宇都宮家と並んで関東の有力国人に数えられるまでの成長を遂げている。しかし、17代晴朝には子ができず、徳川家康の子秀康を養子として直系は途絶えた。そして秀康が越前へ67万石で封ぜられたことは先述したとおりである。

きもの風土記 きもの風土記
結城城址(三の丸) 朝光建立の称名寺